第10章 声に出さないまま
良かった、ほんとに……解放されて良かった。ざらついた声音で、心底安堵したように絞り出した夾の声音は、由希には聞こえていない。
自分自身にだけ届いた言葉に、下唇を噛んで、上がってきた言葉を飲み込んで「うん」と微笑んだ。
「多分、もう解放される。全員が」
夾とひまりのやりとりを眺めていた由希が、ポツリと呟く。
夾の解放も近いよ。言外にそう示したのは、夾に対しての気遣いではなく、ひまりを安心させたかったからだった。
気休め等では無く、由希は本気でそう思っていた。
だが、ひまりはまた下唇を噛んだ。
―――きっとそれを見届けられたなら、猫も安心して離れられるから。
きっと夾は解放されない。全てが終わらないと、解けない。
何処がこの絆の終わりなのか、夾が解放される条件とは何なのか。
より一層、彼の鞄を抱き込んだ。何も言葉を出せず、唇をキツく引き結ぶ。
泣きそうだ。
鼻の奥が痛むのを堪えて、鼻から大きく息を吸い込んで。目頭が熱くなるのを、瞬きもせずに目を見開き、風で冷やし。余韻を逃したつもりだったが、瞳には少しでも揺らせば溢れそうな膜が張っている。
鼻の奥を痛めたのは、夾の事だけではない。
痛い。鼻も目も、喉の奥も心臓も。
ふっ、と堪えていた息が漏れ、透明な感情が零れ落ちる直前で、橙色の髪が頬をくすぐった。
抱きしめ、られていた。
うなじを包み、引き寄せ、再度「良かった」と掠れた声が耳朶に響いた。
彼の暖かさを求めようと鞄から手を離し、腕を伸ばした瞬間、破裂音と僅かな衝撃がひまりを現実に引き摺り戻す。
腕に抱えていた鞄の上に落ちる、夾の衣服。その中には彼の髪色と同じ、夕陽のような鮮やかなオレンジ色の毛を持つ猫が姿を表す。
大きな目の下の毛の色を一筋、濃くしている彼をひまりは目一杯抱きしめる。堪え切れなかった涙が、彼の背中にぽたり、ぽたりと濃い斑点を描いていった。
そうか、抱き締めて貰う事も出来ないのだ。
突如消え去った、自身に課せられていた掟。
もう、誰とだって抱き締め合える。物の怪の存在が消えて、産まれた時から背負ってきた無情なルールが取り払われたのに。
一番温もりを感じたい相手には、そのルールが課せられたままなのだ。
禁忌の牢へ行くことが決まっている私は、永遠に彼の温もりを知ることは、ない。