第10章 声に出さないまま
―――大丈夫。
慊人の足の裏は傷付き、砂利を握りしめる爪が割れ、どちらからも血が滲んでいた。
紅野が「体に障るから」と連れ戻そうとするが、何処にも行かないで。と叫び潰れた喉から、掠れた声を上げ続けている。
―――大丈夫。
「あき」「慊人」
ひまりの言葉を搔き消すように、声量を上げた声が重なる。
慊人は黙し、乱れた黒髪をそのままにゆっくりと顔を上げた。恐怖と期待を掻き混ぜたような漆黒の双眼が、由希に向けられる。
下を向いていて気が付かなかったが、色を失くした唇にも、赤が滲んでいた。
由希の腕の中から、ゆっくりと見上げる。近過ぎる距離に、表情をうまく読むことは出来なかったが、それでも感じた。
凪いだ海のように静かで、深海のように冷たい瞳。
ぽたり。ひまりが雫を零したことを、由希は知らない。
―――大丈夫。
「怪我、してるよ。手も足も、口も」
「由希、由希……行かないで」
「具合も悪いんでしょ。戻った方がいいよ。正直俺も、今はちょっと、動揺してるから」
帰るよ、悪いけど。酷く冷たい言い方だった。
胸の奥に、刃のように突き刺ささったそれが、痛む。
「また今度、ちゃんと話に来るから」
抱き締めていたひまりから体を離し、強く手を引いて、呆然とする慊人に背を向けた。
―――大丈夫。
ひまりはバランスを崩しながら、胸を押さえていた手に力を込める。顔に作れない皺を、衣服に寄せた。
砂利の上で力なく崩れ落ち、憔悴した顔の慊人が視界に映り、もう一度衣服に濃く皺を刻む。
陽を見たことも無いような真っ白な肌。そこに春の陽気が差し、血が滲む爪先をも包み込む。
次に温もりを乗せた春風が、崩れた華奢な体に纏うようにして吹き抜ける。
大丈夫。ひまりは自身の肩越しに、絶望の淵にいる神様に顔を向けた。
―――大丈夫だよ、慊人。
声に出さないまま唇を動かし、柔らかく目を細めた。
見ていた紅野が瞠目し、瞼を静かに閉じて、眉根を寄せる。慊人から見えない位置に作った拳が、白くなり震えていた。
ざり、ざり。砂利を靴で踏み鳴らす二つの音が、崩れた瓦礫を踏み荒らすような、無情な音を響かせている。
それでも、神様が深淵の底に転がり堕ちなかったのは、動物達の願いが生きているからであった。
―――大丈夫