第10章 声に出さないまま
約束の時間は十時。その十五分前に草摩本家に到着した時だった。
妙な静けさ。気候も風も、こんなにも爽やかであるのに、全身を靄で覆われているような気持ち悪さ。
ゾクリと脳の内側を、何かが這ったような違和感に立ち止まる。
由希……。理解できない不安感に彼の腕を掴もうとして、宙に浮いた手を止める。
彼も同じく立ち止まっていた。額に手を添えて。
由希がゆっくりと顔を上げ、ひまりに目を寄越す。
視線がかち合った瞬間に、二人の間に風が吹いた。
目を見張った。良く分からない違和感の正体を、お互い理解したのだ。
同じタイミングで瞳が揺れ、潤い、零れたそれが頬を伝う。
瞬きをせずとも溢れ出るそれは、由希とひまりでは意味が違っていた。
―――昔。遠い遠い昔。
山奥に住む"人"がひとり。
見た目はどう見たって人間でした。
だが、人間よりも長い命を持ち、草木を芽吹かせ、命を与え。
生命の記憶を幾重にも持つ、不思議な存在。
人にして人に非ず。
"異端"であるが故に人間を恐れ、傷つくことを恐れ、山奥で独り。たった独りで寂しく暮らしていた時のこと。
猫が一匹尋ねてきました。猫は"異端"を"神様"と呼び、片時も離れず、ずっと側にいました。
神様はもう寂しく等ありません。温かさを知り、自分を呼ぶものがいるというのは、こんなにも心が豊かになるものなのだと、毎日が幸せでした。
そしてある日気付くのです。"人間"以外になら受け入れられるのではないかと。
神様は宴の準備をして、森にいる動物達を呼びました。
鼠、丑、寅、午…。集まった動物は十二匹。
神様と十二匹の動物達は、毎晩宴を開きました。
名を呼ばれ、名を呼び、語り、涙が溢れるほどに笑い合い、幸せでした。
ですが命にはやがて終わりが来ます。
猫が倒れ、その命が消えかかり、神様は嘆きました。
動物達も嘆きましたが、皆分かっていました。
この世に生を受けた時から、いつか命に終わりが来ることを。
楽しい宴が永遠に続くことはないのだと。
神様は猫の命が尽きてしまう前に、と急いで盃に祈りを込め、猫に舐めさせました。
そしてこう言いました。
「命が終わり、また生を受けた時に離れ離れにならぬよう、この絆を永遠のものにしよう。この世がどんなに変化していっても、我々だけは不変でいよう」