第10章 声に出さないまま
片足を立てた膝に肘を置き、ざらついた口端を拳で拭った。
ピリッと走った痛みに眉根を寄せる。
目の前で止まった足音は、何の言葉も発しない。
しゃがんでこちらを覗き込んだのか、陽に当てられて琥珀色になった髪の毛先が見えた。
「……こっち見んな。だせぇから」
「今日の晩御飯鍋だからさぁ、具材の準備手伝って」
まるで場違いな、この状況に対して配慮の欠片もない言葉に数回瞬きをした。
気を使ってほしい訳でも、慰めて欲しい訳でも無いが、鳩が豆鉄砲を撃たれたらそんな表情になるであろう顔を引っ提げて、目の前でしゃがむ彼女の顔を見上げる。
乱れた前髪の隙間から伺った顔にまた面食らう。
歪に細めた目で下手くそに笑っていた。こっちが笑ってしまいそうな程に、下手くそだった。
ピリつく口端を気遣いながら、こちらは零れたように笑う。
「……わーったよ。先に準備しとけ」
「はーい、よろしくね」
やっぱり下手くそだ。また数回咳き込んで、小走りで去る背中を見つめた後、祈るように瞑目する。
勝てない。どれだけ修行を積んでも、幼子を相手しているかのように躱され、地に伏せられる。
どうか、どうか彼女の呪いをすぐにでも解いてほしい。何もかもから解放してやって欲しい。
すっと瞳を開いて、頼む。と唇を動かす。
生暖かい風だけが、その祈りを聞いていた。
腹の底というか、胸の奥というか。何処が、と聞かれても明確な答えが出る訳じゃないが、何となく違和感を感じていた。
何か変な物でも食べてしまっただろうか。そんな気怠さすらも思わせる。
陽は暖かくて、風が気持ちよくて、小鳥たちのさえずりが心地よい。
それに相反した体の違和感は、今から向かう先の憂鬱感を表しているのだろうか。
「もっと反対するとか、黙って出て行くとかするかと思ってたけど」
「いやぁ、あの感じだと私がどう足掻いても、ついてくるんだろうなぁって」
微苦笑を由希に見せたひまりは、すぐれない体調を誤魔化すように息を大きく吸い込み肺に溜めた。
「春だねー」
春の香り、などは感じられない。桜の木は、まだ芽を膨らませて僅かに色付いた程度であるし、風が花の香りを運んできた訳でもない。
夜はまだ肌寒いし、変わったことと言えば、身に付ける衣服が少し軽くなったぐらいだろうか。