第10章 声に出さないまま
と、言われてもひまりにとってはやはり否であった。
由希は普段、本家に近寄ろうとせず、ましてやはとりの診察の為に赴いたこともない。
何かあればはとりがこちらに駆け付けてくれるのだから。
であるから、ひまりが呼ばれた日に、本家に顔を出したことが慊人にバレようもんなら、確実に不信感を抱かれ、逆鱗に触れる。かもしれない。
「待って。だめ、由希はお留守番」
そう言ってしまった後に、言葉選びを間違えたと気付く。
由希は心底不愉快だとでも言いたげに、目を眇めて僅かに顎を上げた。
「何言ってるの。行くよ」
「違う、ごめん。言葉の選択を間違えた。だからちょっと冷静になって……」
「俺は冷静。焦ってるのはひまりの方でしょ」
本来彼はこういう物言いをする際、その表情は無害の象徴のような、柔らかい笑顔を張り付ける。
その温度差に慄いてしまうのだが、今回はまるで違う。
眇めた目はそのままで、口元は些かも上げていない。
「ひまりがどう言おうと、一緒に行くから」
崩さない顔。抑揚のない声。
ひまりに対しての怒りではない。由希が腹の底で沸々と抱いているのは、凪のような背反だ。慊人に対しての。
ひまりは頷くことも、肯定することもしなかった。
もうすぐ解けるんだ、由希も。脳裏に自然と浮かび悟った物が、体に馴染むように巡る。
崩れていく。見えない絆がゆっくりとほどけていく。
朽ちた手綱が、元通りになることは無い。
胸が締め付けられた。
は、と短く息が漏れた。
―――初めまして……ひまり……っ
物の怪憑きは神様に初めて対面した際、涙を流す。
勝手に涙が溢れて止まらなかったそうだ。
違った。異端として産まれた少女は違った。
涙を溢れさせたのは、神様の方だったのだ。困惑する少女の背に、爪を立て、縋るように抱き締めながら、静かに涙を流し続けたのだ。
その時少女が抱いたのは、不思議な感情だった。
縋りつく神様の背に手を回し、爪を立てられた背の痛みなど気にも留めず、抱き締めて離さなかった。
物の怪憑きとしての感情も勿論あったが、何よりも心に溢れ返ったのは。
庇護欲が掻き立てられるような愛おしさ。まるで産まれたばかりの我が子を慈しむ、母親のような。
幼い少女には理解が及ばない、不思議な感情だった。