第10章 声に出さないまま
依鈴が病院に運ばれた時は、動揺で気付かなかった。
それは由希も同じだったようで、あの時はひまりを落ち着かせるのに必死だったから落ち着いて話せなかった。
だから後日、感じた違和感に由希と話し合ったのだ。
何故あの時、紅野に抱かれた依鈴は変身していなかったのか、と。
導き出された答えは二つ。
紅野も依鈴も物の怪憑きのままか、それとも二人共解放されてるか。
普通なら前者の方が自然だ。後者の考えなど浮かぶはずもない。不審に思うこともなかっただろう。
だが、師範から聞いた話。依鈴に感じた今までとは違う雰囲気。
この二つが加味されれば、結果は覆される。
紅野も依鈴も解放された。知らぬ間に。きっと何の前触れもなく。
「リンの呪い、解けてるでしょ」
潑春の言葉が、静寂な海の底を思わせる空間を一瞬で作った。
依鈴は瞠目し、ひまりは思考が働いていないような顔をあげて静止している。
沈黙を続ける依鈴が、この場から逃げようと右足に力を込めた瞬間に静寂が破られる。
ホントに!?立ち上がったひまりの声だった。
潑春の言葉を聞き、理解して、それならばあの深い部分に感じた違和感に納得がいく。
そう答えは出した筈なのに、依鈴を見つめる瞳は懐疑的であった。
再度、静寂が訪れたが、今回は長くは続かなかった。
潑春が微動だにしない依鈴の腕を引いた。
紫黒の瞳が見開かれ、抵抗する間も無く彼の腕の中に引き込まれたのだ。聞き覚えのある破裂音。
この姿になんの久々。緊張感の無い声で喋ったのは牛の姿になった潑春だった。これ程、明確な証拠はない。
不快な表情をする依鈴とは裏腹に、ひまりの瞳は爛々と輝かせ始める。幼い少女のような嬉々とした表情に怯みを見せた依鈴は、またもや抱きつかれるのを易々と許してしまったのだ。
「信じらんないっ!凄い!凄いよリンッ!」
「ちょ、ひまり離れて…っ」
「いーやーだーっ」
しっかりと腰に抱きつき引き剥がせない少女、その背後で春の陽のような雰囲気を醸し出す鼠と牛に、怨念の色を宿した瞳で睨みつける。
"隙"ばかりを見られている。こんな屈辱はない。紫黒の奥で恨み節を呟いているようだった。
「ねぇ!いつから解けてたの?どうやって解けたの?だからリンにギュッてされても私、変身しなかったの?」