第10章 声に出さないまま
居間に入って依鈴がくるりと振り返る。
以前まではその仕草に、長い黒髪が円を作るように靡いていた。
今は、ふわりと首元で揺らぐだけ。
リン。名を呼ぶ寸前で腕を引き寄せられる。細い腕が背中に回り、弱々しく力が込められる。
ふわりと香る髪の匂いは変わらなかった。
途端にひまりが耐えていたものが溢れ始める。
「よか、良かった、無事で。よか…ッ」
「ちゃんと泣けるようになったんだね」
ごめんね。依鈴はまだ倦怠感が残る体に力を込め、全身で抱き締めた。肩元に顔を埋め、ただただ温もりを確かめるように縋り付くひまりの背を、撫でてやりながら。
「ひまり…アタシ」
ひまりが顔を上げると髪色よりも僅かに淡い、紫黒の瞳とかち合った。その奥に潜む微かな違和感に目を細める。
何かが違う。見た目が変わっただとか、浅い部分の話ではなくて。地中深くに張り巡らされた根の部分のような。
瞑目し、また開かれた黒の双眼。続きの言葉を紡ごうとして、ひまりの背後に目を向けた瞬間に紫黒が目一杯見開かれた。顔を真っ赤にして投げ飛ばす。大切そうに抱き締めていたソレを。躊躇無く。
「ひまりーーーーっ!?」
鈍い音と共に屍と化したひまりの名を叫んだのは、居間の外からひょっこりと顔を出していた由希。
その下から同じく覗き込んでいた潑春が、頭から煙を出しながら、うつ伏せで倒れているひまりを無表情で見つめ「痛そう…」と抑揚のない声でつぶやいた。
依鈴は他人に隙を見せることを嫌う。今回はひまりを抱き締めるという部分が、彼女にとって見られたくない"隙"だったのだろう。
そしてその餌食となったひまりは、壁に頭部を打ち付けるという結果になったのだ。
「なっ…んで、お前らが居るんだよ!?」
「師範から連絡を貰ったひまりが、上着も無しに出てったから…」
「俺も。師範から連絡あって、んで来た」
生きてる?…ダイジョブっす。潑春とひまりの掛け合いを余所に、未だに顔を赤くしたまま警戒する依鈴に、由希は「元気そうで良かったよ」と笑う。
"隙"を見られてしまった依鈴は、バツが悪そうな顔をして居間を出て行こうとする。が、潑春が止めた。
聞きたいことがある、と。
由希と潑春が感じた"違和感"の正体を問うために。