第10章 声に出さないまま
座ったまま眠ることを決めた潑春は壁に背を預け、両膝を立てて座り掛け布団を肩まで被った。
彼女の変身が戻らないように胸に抱いて目を瞑り、声には出さずに唇だけを動かして言葉を放った。
——— 好きだったよ
同じことを、さっきひまりを抱きしめた時にも耳元で囁いていた。
当の本人には聞かれてなかったようだが、それで良かった。
諦めたくはない。でも、きっとそうするしかないんだ、と自身にいい聞かせる為だった。
笑っていて欲しい。十年後も、二十年後も、その先もずっと。ひまりに笑っていて欲しい。
キッチンで苦悶の表情で、窓に映る自身の顔を見つめていた彼女が何を思っていたのかは分からないが、どんな理由があるにせよ、この先あんな表情をさせたくない。
夾とくっついたひまりを前に、笑って酒酌み交わせるぐらいにはなってやる。
瞳を閉じた。胸が張り裂けそうだった。
もう一度だけ、発声せずに唇だけを動かして呟いた。
パァンッ
気持ちのいい音が部屋に響き渡った。チチチッと外で朝の挨拶を交わすような鳴き声を上げていた小鳥たちが、驚きで体を跳ねさせて一斉に木の枝から飛び立つ。
同じく眠っていたひまりも全身を跳ねさせて、上半身を勢い良く起こす。
その瞬間に、焦ったように「服着てくれる!?」と大声を浴びせられた。スリッパを片手に持った由希が、真っ赤に染めた顔を壁へと向けている。
何故由希が?それよりも全身ガッチガチだし、肌寒いし、座り心地が悪いような…。
「おはよ、ひまり」
ほぼ至近距離から耳元に発せられた潑春の声に目を見開く。そちらに顔を向けると頭頂部をさすりながら大欠伸を披露する潑春。そして下を見る。腰あたりまで落ちた掛け布団。自身の裸体。座っている場所は、伸ばされた潑春の脚の上だった。
成る程。そりゃ座り心地も悪いし、由希が顔を真っ赤にするはずだよねぇ。
ひまりはカラカラっと笑った直後に、落ちていたダウンジャケットで体を隠しながら立ち上がり、顔を背ける由希の手からスリッパを奪い取った。
頭よりも高く振りあげたそれを、力の限り振り下ろす。白髪のつむじに向かって。
再度気持ちの良い音が部屋に響き渡り、殴られた所から煙を出して脱力する潑春の足を掴んだ由希は、その巨体を引き摺りながら部屋を出て行った。