第10章 声に出さないまま
部屋の前で空吐きした。数回オエッと声は出たものの胃の内容物が迫り上がってくる様子はない。
肺いっぱいに空気を吸い込み吐き出す。
胃の不快感が治まった所で部屋に入る。薄暗い部屋の真ん中で膝を抱えて座る華奢な体。
あぁ、機嫌が悪ィんだな。
重苦しい空気ですぐに察した。また嘔吐感が押し寄せるが何とか飲み込む。
何も言わずにせめてもの見栄で睨み付けていると、こっちへおいで。とまるで子猫を呼ぶように腕を伸ばし、口元に薄い弧を描いていた。
「どうしたの?夾?そんなに怯えて…。こっちへおいでよ?」
「怯えてなんか…っ」
「おいで?」
穏やかな声音で今度は瞳に緩いカーブを作る慊人。
鉛を付けているかのように重い足を動かし立ち止まると、伸ばされた手で手首を掴まれ下に引かれる。
咄嗟に振り払おうと思ったが体が硬直して動かなかった。
いつもそうだ。自分の意思に反して、抗うことも拒絶することも出来ない。
ギッと奥歯を噛み締め、隣に腰を下ろすと慊人は満足そうに微笑んだ。
「僕はね少し反省してるんだよ?別荘では夾に酷いことを言ってしまったからね」
いつもと様子が違う慊人に眉根を寄せる。
機嫌が悪い空気を醸し出しているのに、それを感じさせない穏やかな声音と表情。夾を名前で呼び続けることも珍しい。
口を開けばまた空吐きしてしまいそうで、不信感を抱きつつも沈黙を貫いていた。
「あの時…君はひまりを好きじゃないって言ってたけど…本当は好きなんだろう?僕に嘘つかないでいいんだよ?」
慊人の冷えた指先が頬に触れ、夾は思わず身を仰け反った。
冷たい戦慄が全身に走り、暑くも無いのに背筋に汗が流れる。
肯定してしまえばひまりが不興を買うことになる。だがその話し振りから、慊人の中ではもう確定しているのだろう。
歯噛みしながら頭の中で波風を立たぬ言葉を必死で探すが、思考が働かない。
邪魔をする。別荘の時よりも膨れ上がった感情が。
そして何よりも目の前にいる"絶対的な存在"に向けられた目に嘘がつけない。
夾の思考が手に取るように分かるとでも言いたいのか、慊人はクスクスと笑いながら「心配しないで」と力なく首を傾けて笑った。
奥底の感情を隠すかのような芝居がかった表情を作る慊人が酷く恐ろしい物に見えて喉が震えた。
「はとりの時みたいに目を潰したりなんかしないよ」