第9章 ホダシ
本当は期待していたのかもしれない。
それを聞いた男の言葉を待っているかのように、その場から動けなかった。
「ひまりさん!菜々美のこと本当に有り難うございましたっ!」
「お姉ちゃんありがとぉ!また遊ぼうねっ!!」
振り返らなかった。
何の引っ掛かりもなく、何の躊躇もなく"ひまり"と呼んだ。
まるで初めて聞く名前だと言わんばかりに。
「もう会うことなんてないよ」誰にも聞こえないほどの呟きの後、手を上げて歩き始めた。
あの女の子には何の罪も恨みもないのに。
暴れ出しそうになった感情の根底にあったのは
羨ましさだ。
当たり前のように抱かれて、当たり前のように名前を呼ばれて、当たり前のように愛されている菜々美ちゃんが。
当たり前のように幸せな家庭を築いているあの人が羨ましかったんだ。
汚い。自分はなんて汚いんだろう。
醜くて、嫉妬であんな態度を取って。
汚い。醜い。真っ黒だ私は。
「ひまりっ!」
「わっ…!」
掴まれた両肩に顔を上げる。
心配そうに顔を覗き込む由希に目を見開いて瞬きを繰り返した。
「様子見に来て良かったよ。下向いたまま歩いてたらぶつかるよ?」
「あ…ごめん」
一気に現実に引き戻されたようで、思考がふわふわと浮いた感じがした。
由希は困ったような笑みを浮かべて肩から手を離す。
「どうしたの?あの女の子は??」
「お父さん…が見つかって、さっき別れたところ」
…そう。由希はひまりが言わないなら何も聞かないと決めたようで優しく答えてから師範が待つ病室へと彼女の手を取り歩き始める。
数歩歩を進めたところでひまりが立ち止まる。
「私、滅茶苦茶嫌な人間だ…」と呟いた声を聞き逃さなかった由希が再度ひまりに向き直る。
どうして?と穏やかな声音で。
「あの女の子…菜々美ちゃんが…当たり前のように愛されてて…嫉妬して…嫌な態度、とったの私」
ただ懺悔を聞いてほしくて、それを聞いた由希に軽蔑され罵られても構わないって。
むしろその方が楽かもしれないと言葉を続けた。
「菜々美ちゃんは何も悪くないのに、菜々美ちゃんのお父さん…にも有り難うって言われたのに無視して立ち去った。醜い感情が先立って…それをそのまま態度に出して…。私は汚い人間だなって…凄く嫌で…」