第9章 ホダシ
その日のことはよく覚えていた。
夜を迎える直前で薄暗かった筈の景色は、昼間よりも明るい"赤"が広がっていて。
人集りで中を進むのは物の怪憑きには危険だという理性は何とか働き、離れた場所から眺めていた。
暴れる心臓と引き攣るような呼吸は自分自身に起こっているのに、何故か他人のもののように思えて。
赤はまるで生き物のように見えた。
赤がうねる度に肌を焼くような熱風を巻き起こし、息をすれば嗚咽を漏らすほどの悪臭を充満させ、全身が震えるような咆哮を響かせていた。
まるで天を目指す為に辺り一面のものを全て餌にして大きく大きく成長していく生き物。
あぁ、そうだった。
私は不幸に選ばれる"生き物"だった。
絶望を具現化したような景色をただ呆然と見つめていた。
何故またここに来たのか。
ただただ無意識だった。
気がつけば、あのアパート…今はもうその影もないこの場所にいた。
やっぱり思い出せない。
自分の母親の顔を。
枠組みだけを残したアパートは、まだ解体の目処が立っていないのだろう。
未だに黄色いテープが張られていた。
今度はその黄色いテープを潜って中へと入る。
何も残っている訳が無いのに、それでも何かあるような気がして足を踏み入れた。
真っ黒な地面を越えた先は自身が住んでいた部屋の前。
中を覗き込んだが焼け落ちた木や、黒い塊、何か分からないグニャリと曲がったアルミ板のような物が散乱していて中へは入れそうもなかった。
玄関の外に置いてあった植木鉢も熱に耐えられなかったのか、無残にも割れて炭と化した木が倒れている。
「……なにこれ?」
その植木鉢の中に黒く小さな塊を見つけて恐る恐る手にとってみる。
石…?何度か手で擦ってみると白っぽい色が顔を出し、代わりにひまりの手を黒く染めた。
石に数字のような物が書かれているのを見つけ、全てが見えるように何度も擦る。
「……16年前…の…日付…?」
手のひらに収まる小さな白い石に油性ペンのようなもので書かれた日付。
誕生日でも無ければ、何か思い当たるような日付でもない。
これは…何の日…?
首を傾げて石を見つめる。
やはり見覚えのないそれを置いていく気にはなれず、握りしめたまま黄色いテープをくぐった。