第9章 ホダシ
数回の瞬き。
…返してこいよって夾が言ったんだよね?と数秒前の記憶を手繰り寄せ、また瞬きを数回した。
「えーっと…夾さん?」
「…ンだよ」
「行けないんですが?」
「あぁ」
「春に上着返しに行くね?」
「あぁ」
ひまりは一度視線を上へと向ける。
あぁ…ってことはハイということで。
イエスということで…合ってるよね?
視線を泳がせて再度下を見る。
やはりそこにはしっかりとジャケットの裾を掴み、離す様子のない夾。
もしかしてコレって…。
まるで天邪鬼を拗らせた幼子の姿が頭に浮かび、吹き出しそうになって膨らんだ頬から空気が漏れないように固く唇を結んだ。
行かないで…という解釈でいいんでしょーか?
勝手に上がる口端を片手で隠しつつ、夾の前にしゃがむとすんなりと離される裾を掴んでいた手。
顔を覗き込むと僅かに顔が染まっていて、また吹き出しそうになる。
「ふっ…何か、聞いて欲しいことでもあんの?」
「…別にねーよ」
「あっそ」
天邪鬼を貫くつもりの彼に肩を竦めて、膝に肘を置いて頬杖をつく。
「春が風邪ひいたらどうすんのー?」
「うっせー。返してこいよ」
言動と行動が一致していない彼の姿に堪え切れず、ブッと盛大に吹き出した。
「とんだ拗らせ野郎がここにいまーす」
「黙らせんぞコラ」
「まぁ、とりあえず!すぐに戻ってくるから待っててねー」
夾の肩をポンポンと叩いてからそれを支えに立ち上がると、うぉっと驚いた声をあげて前のめりになった彼はジットリとひまりを睨みつけた。
本気ではない睨みにケラケラと笑いながら、足早に階段を上がってドアに手を掛ける。
すぐに戻ってくるからねー。ひまりが幼子に話しかけるように言うと眉間に濃いシワを作った夾は「早く行け!戻って来んな!」とドアを開けて姿を消したひまりに怒鳴りつけた。
そしてハァと息を吐き出し頭を抱える。
あんな風に引き止めるつもりなど毛頭無かった。
潑春相手に邪魔するつもりは無いと宣言したばかりだ。
自身の失態に、それはそれは果てしなく長くて大きいため息が出る。
あー…と天を仰いで腕で目を覆った。
幸せにしてやれる…資格なんてねェ。猫憑きの俺には…
夾は立ち上がってひまりを待つことなく、階段を降りて行った。