第9章 ホダシ
潑春の発言を、自身を慰めるだけのものだと思っているひまりは、儚げに目を細めたあとにニッコリと笑って「ありがとう」と歯を見せた。
その笑顔に、モヤッとしたものが潑春の心に産まれる。
微塵も違和感を感じさせない声音に笑顔。
だからこその違和感。
ひまりは「あー。眠いもう無理ー」と羽織っていたジャケットをまた掛け布団のように掛け、膝を折り曲げて胎児のように横を向いて丸くなる。
彼女が着れば袖もダボついて、1枚のワンピースとして着用できそうなそれは丸まったひまりの体を全て覆っていた。
そんなひまりの態度を観察するように見つめるが、やはり僅かな違和感ですら感じられない。
大きな口を恥ずかしげもなく開けて欠伸をするその姿はいつものひまり。
「リンと…何話したの?」
「んー。時間無かったっぽくて、殆ど話せてないの。また来てくれるって言ってたよ」
「そっか」
何度か重そうな瞼で瞬きをしている。
「寝ていいよ。授業終わったら、起こすから」と微睡む彼女に言えば、「ん」という短い返事の後にゆっくりと瞳が閉じられた。
サラリと透き通った髪が横顔を隠すように流れて行く。
代わりに顔を出したのは黒いピアス。
それが太陽の光に反射してキラリと自己を主張した。
潑春はひまりと同じ日に、同じ左耳に開けた自身のピアスにそっと触れる。
まだ痛むそれは、数日前にひまりの耳にある黒いピアスの片割れに差し替えた。
いつかは違う男が渡した、違う物に差し替えられてしまうのは理解している。
だが、同じものを付けていると気付いて、差し替えることを躊躇してくれたら…なんて淡い期待を込めていた。
ヒヤリとした風に身震いして、ジャケットから少しだけ出ていた小さな手に視線を落とす。
すーすーと寝息を立て始めたひまりを起こさないように、細い小指に自身の骨張った小指を絡めた。
じんわりと感じる暖かさに頬を緩ませ、壁に背中を預ける。
「思い出せたら…いいね。きっと、ひまりにとって…ツラいだけのものじゃないよ。……そうだろ?」
空を仰いでいた潑春は、もうこの世に存在しないひまりの母親に問いかけるように呟く。
ふわりと暖かさを乗せた風が、優しく潑春の頬を撫で空へと舞い上がっていった。