第9章 ホダシ
ひまりは上半身を起こして、借りているジャケットを羽織ると膝を抱え込んだ。
長い睫毛を下に向ける彼女の顔を覗き込むと、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「ねぇ春…私、昔は…お母さんに愛されてたのかなー…」
「…どうして?」
「リンがね…私のお母さんの事を"お母さん"って呼んでたの。それでちょっとだけ思い出して…。お母さんと私とリンでギュッてしてたの…みんな幸せそうに…笑ってて…」
はぁ…と少しだけ開けた唇から吐息を漏らす。
蘇った記憶の中では幸せそうに笑っていた。
それこそ「産まなきゃよかった」なんて言うはずもないくらいに。
「あんなに…幸せそうなのに…何がダメだったんだろう…私は何をしちゃったんだろ…」
ウーンと顎に指を当てて深刻そうではない顰めっ面をする彼女は、パッと見はそれ程悩んでないように見える。
だが以前に母親のことも含め、壊れそうだったひまりを見ていた潑春は、彼女の腰に手を置いてさすった。
生理痛にはお腹と腰を温めると楽になると聞いたことがあった。
「…痛いの、飛んでけ」
「ふふっ。何それ。薬飲んだから大丈夫だってば」
「うん、知ってる」
さすっていた手を陽にかざす。
すると隣でひまり眉尻を下げて肩を揺らした。
本当に飛ばすことが出来ればいいのに。全ての"痛み"を。
「ひまりのお母さんの事…ごめん。正直あんまり知らない…。でも、思い出した記憶の笑顔…。嘘じゃないよ」
かざしていた手のひらを握りしめる。
断言したのはその場限りの慰めではない。
"聞いた"からだった。
「あ、やっぱり…来た」
燈路と杞紗が紫呉宅に来るからカレーを食べに来ないか、と誘われた日。
潑春はそれを断って、例の"ライバル"を待っていた。
乱暴に開けられた扉の向こうには、艶やかな黒髪を持つ端正な顔立ちをした少女。
キリッとした瞳は、鋭く吊り上がっており黒いタイトスカートから伸びたスラッとした足には黒いブーツが履かれたまま。
敵意と土足を気にする素振りの無い潑春は、持っていたポータブルゲームの電源を落として机に置いた。
ソファに座る潑春の目の前まできた突然の訪問者は、ソファに片脚を乗せ潑春の胸ぐらを掴み上げてボーッとした彼の瞳に、視線を突き刺した。