第8章 彼岸花
君にそんな顔をさせたかった訳じゃない。
由希は零れ落ちそうなそれを親指で拭ってやってから、汗に濡れて波打つ彼女の髪を耳にかける。
陽に反射してキラっと光る黒い石が顔を出した。
その輝きに反してひまりの表情は暗く、自身を責めているようにも見えた。
「ひまりちゃんと見て?目、平気だよ?」
目の下の傷をもう一度触ってみると、痛みはあるもののカサっとした乾いた感触に、深い傷ではないことを確認してからひまりに穏やかに話しかけて微笑んだ。
少しでも彼女の受けた傷や感じているであろう責任が無くなるようにと。
ひまりは冷えた指先で由希の頬で乾いて掠れた血の跡に触れる。
触れたことで傷を負ったことを更に実感し顔を歪ませた。
「ごめ…。庇わなくて…良かったのに…、ごめん…私が出掛けようなんて言わなきゃ…雨…上がってからにしてれば…っ」
彼女の目に涙は無い。
その代わりに噛みちぎりそうなほどに下唇を噛んでいた。
耐えてるんだ。
そ、と今度は唇に親指を這わす。
歯から離れた唇には僅かに赤が滲んでいて、由希は眉尻を下げた。
「ひまりが怪我する方が俺は痛いから。だからコレは痛く無いよ。目も無事だしね」
「そんなの…私だって一緒…。私が怪我する方が痛くなかった」
それは困ったな、と由希は眉尻を下げたまま微笑んだ。
だが、ここは引けない。
守りたいと思ったものを守ると決めたから。
「俺はこれから先、"俺が決めた"選択をしていきたい。動けずにいる自分を慊人や、呪いのせいにしたくないんだ。俺が守りたいと思ったからそうしたんだ。だからひまりは責任を感じないで」
君のお陰で立ちあがる勇気を貰えたから。
ただ…
「でも、そのせいでひまりがいらぬ言葉を浴びせられてしまったことは…ほんとに申し訳ないと思ってる…ごめん」
"守る"ことは簡単じゃない。
間違わずに…、道を間違えることも踏み外すこともなく生きていけたらいいのに。
ひまりを泣かせることも苦しませることもなく…。
そう、小さい頃に憧れた正解だけを引き当てるヒーローみたいな…そんな風に。
ひまりは長い睫毛を下に向けた後、由希の傷を見てから視線を合わせた。