第8章 彼岸花
"月が綺麗ですね"
実はひとりで賭けをしていた。
途方もない、望みの薄い賭け。
それはまるで慊人としている賭けと同じくらいに勝率は低い。
いや、皆無だ。
ホラー映画に出てくる"じぇいそん"を熊だと勘違いしている程に、自分が生き抜く中で必要の無い事柄には興味がない彼。
そんな彼が、あんなロマンチックな言葉を知っている訳がない。
分かってて、敢えて賭けた。
完全に想いを断ち切るために。
恋をしたことが無いから、失恋もしたことがない。
恋の忘れ方なんて勿論知らない。
なら区切りをつければいい。
ココまで、と区切りをつけてしまえばきっと案外忘れられるものかもしれない。
抱えた膝に顔を埋めて、膝で両目に圧をかけた。
押さえつけられて行き場のない滴は、流れることはなかった。
「おっはよー!!!今日も清々しい朝だね!!」
「ひまり、まだ寝てるの?目見えてる?耳聞こえてる?」
清々しい笑顔の由希から放たれる針山のような言葉達に、キッと睨みつけて返す。
最近由希はひまりに対しても、自身の黒さを隠すことがなくなってきていた。
と、いうよりむしろ牙を剥くことが多い。
いや、"素"を出しているだけと言うべきだろうか…。
確かに外は土砂降りの雨だ。
蛇口を全開に捻ったシャワーを壁に当てているかのように轟音を轟かせている。
清々しい朝、という言葉が似つかわしくない今朝に対してひまりがこう言ったのは、ただ"ボケた"だけである。
そして薄暗い外の雰囲気に対し、家の中くらいは明るくいようじゃないか、という思いも込められていた。
自身のテンションを上げる為の物でもあったかもしれない。
「そんっっっなにボロカス言わなくて良くない!?ねぇ、紫呉もそう思うでしょ!?」
「んー。出来れば僕には振らないで頂きたいんですけど?」
紫呉は座椅子に腰掛け、由希から視線を逸らして片手に煙草を持ったまま口から紫煙を燻らせている。
紫呉の関わりたくなさそうな態度と言葉に違和感を抱きつつ、朝食の準備の為にキッチンへと向かった。
いつも早起きな夾の姿が無いところを見ると、この大雨で体調を崩しているのだろう。
昨夜のことを思い出し、チクリと痛みを伴う胸に一度目を閉じてから口角を上げて笑顔を作った。