第8章 彼岸花
私が泣き止んだことを確認してから、夾は「そろそろ戻るか」とまた袖で私の頬を拭ってから立ち上がった。
離された手が急に外気温に晒されて、その熱を奪われていく。
夾は泣いた理由を聞かなかった。
ただ泣いてることを咎めることもなく、問いただすこともなく髪を弄ぶようにして頭を撫でてくれていた気がする。
「はーい。寝まーす」
起き上がると見慣れた景色が広がって、あぁ二人だけの世界が終わってしまったんだ。と少し開いた唇から息を吐き出した。
もう感じることのないと思っていた手の温もりは案外すぐに舞い戻ってきた。
手を繋いで、屋根から降りた後も当たり前のように繋がっている。
それが嬉しくて…苦しくて…。
私の部屋の前に着いた所で手を離すべきなんだろうけど、私から離すことは出来なかった。
「…寝れそうか?」
幼い子に語りかけるように優しい声音に甘えてしまいたくなった。
時計の針はそろそろ長針も短針も頂点を指す頃だろう。
"今日"が終わる。
魔法が解ける時間。
「寝れるよー!私が言うのもアレだけど…夾も早く寝なよ!」
カラッとした笑顔をむければ、フッと口角を上げた笑顔が返ってくる。
ゆっくりと力が抜かれる手に抵抗はしなかった。
途端に襲ってくる喪失感が出ないように、「おやすみ!」と歯を見せて笑った。
くるりと背を向けてドアを少し開いた所で夾に呼び止められる。
「何があっても…守ってやるから。ひとりで背負うなよ」
部屋の中からカチリと時計の短い針が動く音が聞こえた。
秒針は止まることなく回り続ける。
それは私じゃなく透君に言うべきでしょ、と出かけた言葉は音になってはくれなかった。
言いたく無かった。
「自分の身くらい自分で守れるようにならなきゃ、女が廃るってもんでしょ?」
ニシシッと悪戯な笑みを作って振り返れば、腕を組んで不機嫌そうに眉を寄せる夾の姿。
反論をしようとして彼が口を開きかけた所で声を被せる。
「ありがとう!」
「は?なにが…」
「ありがとう、夾」
また悪戯な顔を作って、今度は夾の声を待たずに部屋へと入ってドアを閉めた。
ドアの外に向けて「おやすみぃーっ」と声を掛ければ、呆れたような声で「おやすみ」と言った後に遠のく足音。
ドアに預けていた背をそのままにズルズルと座り込んだ。