第8章 彼岸花
何故気付かなかったんだろうか。
——— 男にぶつかりでもしたらどーすんだ
まずこの時点で疑問に思うべきだった。
——— …変身でもされたら……
ちゃんと聞き取れなかったけど"変身"って…言ってたよね…?
聞き間違いかもしれない。
あの時はうまく頭が働かなくて…
けど…
——— お前さ、1日目の…アレ、聞こえてたか?
私の勘違いでは無い。
"確定"だ。
ひまりの心の中は一気に"絶望"の文字で埋め尽くされた。
血の気が引いて、空いたばかりの真っ赤だった左耳さえもその色を無くしていく。
「う…そ…」
両手で口を覆った。
指の先までもが冷えていくような感覚。
気付いた瞬間に震えと動悸が止まらない。
いつから知ってた?
誰から聞いたの?
どこまで知ってる?
どうして私に…何も言ってこないの…?
「……ひまり」
声を掛けても床を見つめたまま何の反応も示さないひまりに潑春は更に眉根を寄せた。
応えてくれなければ何もできない。
目の前で震える彼女を抱きしめる事すら、物理的に出来ないのだから。
「だ、から…あの時…」
ひまりは頭の中にある記憶を拾い集めていた。
——— …俺に何か言うことねぇの?
あれはそういう意味だったんだ。
夾は聞こうとしてたんだ。
私の口から事実を聞こうと…。
それなのに私が…言わなかったから…。
——— 残酷だ……あまりにも…
ひまりの中で点と点が結びつき段々と形が表れてくる。
"幻滅"…されたんだ、と。
今までと変わらない態度も、きっと彼の中で線引きをしているんだ。
その事実を知らないことにして…"無かったこと"として接してくれているんだ。
あの時折角与えてくれたチャンスを潰したんだ。私は。
「ひまり、落ち着いて。息、おかしい」
今からでも遅く無いだろうか。
ちゃんと伝えれば…
受け入れてもらえるだろうか。
「ひまり、こっち見て」
いや、違う。
ギリギリで保ってくれているだけで、彼はきっと許さない。
鼠であること。
鼠の私が騙し続けていること。
夾の最後の優しさなんだ。
知らないふりをすることが。
言えばどうなる?
そんなことすぐに想像出来た。
崩れるんだ。
全てが。