第7章 ベール
「どうだろうな…それぞれに違う…苦しみがあるんじゃないか。天秤に掛けられるものじゃないと思うが」
「そ…っか…。じゃあ…両方を見届ける…側のはとりには…私が想像も出来ない…ツラさ、あっ…たよね……お父さんのこと…ごめ……ん…ね……」
喋りながら語尾を小さな音にしていったひまりは眉根の強張りを解放させて、早かった呼吸をゆっくりと規則的な寝息に変えていった。
弱音を吐き出したかったんじゃなかったのか…と、はとりは夢の中へと誘われたひまりの顔をマジマジと見ていた。
「…熱いな」
ひまりの額に置いた手の平から感じる、体温の高さに思わず呟いた言葉。
「もう少し…自分の我だけを通せたらいいのにな…お前も」
先程のしかめっ面とは真逆の気の抜けたような寝顔に頬を緩ませてから、何度も読んで内容を全て記憶している暇つぶしの為だけだった本を鞄の中へとしまった。
そういえばこの本を買ったとき、佳菜と付き合い始めたんだったな…と久々にはとりは"佳菜"の事を思い出した。
はとりにとって初めての恋人で、全てを曝け出し結婚までも考えていた女性。
だが、彼女は壊れてしまった。
人間は強くない。
あまりに脆く、弱い。
結婚の許可を取りに慊人に許可を取りに彼女と慊人の所へ行った時、怒り狂った慊人がはとりの左目を怪我させてしまい、生涯使えないものにしてしまった事に心を病んだ佳菜の記憶を自らの手で消した。
愛おしい人から自身の記憶を自ら消すことは、まるで生きる希望を全て失ったかのような絶望感だったことを今でも覚えている。
忘れる方と忘れられる方、どちらが苦しいか。
消す方と消される方、どちらが心を潰されるか。
死ぬ側と置いていかれる側、どちらが絶望か。
全てに共通することは、全員が苦しみを味わうということ。
天秤に掛けられる程単純なものではない、ということ。
額に張り付いた髪を払ってやって、ローテーブルに飲み薬を置いてからひまりの部屋を静かに出て行く。
修学旅行の為に、早く風邪を治めたいという彼女の意思を尊重して明日も診にきてやるか。とできるだけ音を立てずにドアを閉めてから階段を降りていった。