第53章 月下美人 *
「『乾杯』」
冷たい氷の入ったグラス。
ウイスキーをソーダ水で割って作った特製のハイボールで、二人だけのささやかな宴が始まった。
選んだ食事は笊蕎麦。
酒に合うか合わないかはまた別の話だ。
グビグビっと流し込んだ程よいアルコールは、疲れた身体中の血管を巡って、ふわふわと気持ちよい酔いをもたらす。
先に風呂も済ませたので、あとは好きに過ごすだけ……二人の服装も、骨と骨の間を伸ばすような楽な部屋着だ。
ふぅ~…と、さきは長い溜息を零した。
汗や泥でドロドロの忍服も、洗濯はもう明日にして、何にも難しいことは考えず、大人な時間を過ごしたい。
こういう時にスマホがあれば、青い鳥さんマークの所で、『明日は1ヵ月ぶりの休み~』なんて呟くと、顔も名前も知らない世界中の誰かから「お疲れ様です!」なんて労いの言葉が届くだろう。
確かにあれは心地よい。
でもこの世界は違うんだ。
今、自分の目の前にいるのはたった一人の男性。
彼からしても、当然目の前にはさきしかいないわけで。
だから、いつもは外さない濃紺色のマスクをしっかり首まで下げきっていつも以上に目じりを垂らして座っている。
その目が自分のものと合ったかと思うと、
「いやー、ホントお疲れ様ね」
なんてその整った顔でニコーって緩く微笑むから、そのコロンと変わる表情にさきはとても癒された。
世界中の匿名者からの何件もの言葉より、カカシの口から、甘くて低い声で発せられるその言葉の方が何倍も嬉しい。
『カカシが一番お疲れ様でしょ』
さきもカカシになるべく優しく微笑み返した。
明日は休みだ。
好きなだけ飲んで、ゆっくり寝よう。
こうした気の緩みは、さきのアルコールとソーダの比率をどんどん逆転させていった。
「さき…ソレちょっと濃いんじゃないの?」
『え?そうかなぁ…』
「ま、今日は酔ったとしても、家だし気にすることはないけど…」
(あ、そうだ、家か。…久しぶりに、カカシと一緒のベッドだなぁ…)
さきはまだ半分ほど残っていたグラスの酒を一気にあおった。
……いい、タイミングかも。
そんなことをぼんやりと思いつつ、引き続き談笑を楽しんだ。