第3章 幻覚ヒーロー
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去年のことを思い返しながら赤葦は、あの日からいつも持ち歩いているハンドクリームをジャージのポケットから取り出してみせた。このハンドクリームは、いい匂いがするだけでなく、本当に優秀なのだ。しっかり保湿してくれる上に、本当にベタベタしないので、練習の合間などにもしょっちゅうつけている。けれど、せっかく彼女から頂いたものがなくなってしまうのは嫌なので、けちけちと他のハンドクリームと併用しながらつけているのは内緒だ。
『嬉しい!!でも、もうなくなりそうだね、新しいのあげるよ』
「ああ、買うから大丈夫」
『女物のお店だから入るの大変だよ?』
「え、そうなの?」
『うん。だからあげるよ。家にいっぱいストックあるし!!いつも助けてくれるお礼』
そういってなまえははにかみながら笑った。
――ああ、くそ。なんだ、この可愛すぎる生き物は。
赤葦はそう心の中で思いながら、そんな様子は毛ほども見せずに「じゃあ、もらうんじゃなくて、代わりに買ってきてもらうって事で」とだけ返した。お礼を言いたいのもしたいのも、こちらの方なのだから。
律儀だなぁ、と言いながら彼女は困ったように笑った。
吹き抜ける夜風に、なまえの肩が小さく揺れる。いくら真夏と言えど、埼玉の郊外にあるこの場所の夜は少し冷えるようだ。赤葦は、自分の羽織っていたジャージを脱いで、彼女の肩にかけた。
『えっ…いいよ!赤葦風邪引いちゃう、』
「いいから」
肩にかけたジャージを脱ごうとする彼女を半ば強引に引き止めれば、ちいさな声で『ありがとう』と返ってきた。
『…赤葦の匂いがする!』
「え、ごめん。汗臭い?」
『ううん、柔軟剤のいー匂い』
そういって彼女は、肩に掛かったジャージをぎゅっと引き寄せ顔を埋めて見せた。
いちいち可愛すぎる仕草や表情に、赤葦は無理矢理自分の視線を彼女から引き剥がした。この人といたら、心臓がいくつあっても足りない気がする、としみじみ思う。