第3章 幻覚ヒーロー
「ごめん、こんな時間まで付き合わせて。冷えてきたし、教室戻ろうか」
『ううん、楽しかった。ありがとう』
屋上の扉を開け校舎に戻れば、もちろん真っ暗で。窓から差し込む月明かりだけを頼りに、なまえの歩幅に合わせてゆっくりと階段を降りていく。
「大丈夫?」
『うん、へーき』
よろよろと階段を降りていく彼女に。
「あぶなっかしいな…ほら」
と、手を差し出せば、ぎゅっと握り返される手。ひんやりと冷たいその小さな手を、更にぎゅっと握り返した。
『、わっ』
突然階段をひとつ踏み外したなまえを咄嗟に支えれば、彼女の顔がどん、と自身の胸板に当たった。
『!ごめんっ、ありがと…』
顔を上げながらそういう彼女と、ばっちり目が合った。
――自分の腕に中に、大好きな人がいる。願ってもないシチュエーションに、心臓はまた音を立ててわかりやすいくらい速くなっていく。
彼女の髪から香るシャンプーのようないい匂いが鼻を掠め、それがまた脳を強く刺激した。自身の身体がどんどん熱を持っていくのを感じて、これはもう、おそらく、理性が吹っ飛んでいく寸前だ。
まずい、と思いとどまって、目と鼻の先にまで近づいていた彼女の顔から顎を引き、肩に手を置いて、ぐいっと半ば突き放すような形で自分から離した。
”理性を保つ”ということだけに支配されていた脳みそでは、咄嗟の判断でこうするしか思いつかなかったのだ。
彼女は少し驚いたような表情で、長い睫毛をぱちぱちさせてこちらを見上げている。
『…ごめん…っ』
「いや…こちらこそ」
妙な静けさが二人を纏う。月明かりに照らされて青白くうつる彼女は、なんだかひどく妖艶に見えた。
『あ…寒くなっちゃったよね…私がずっと上着奪ってたから…ごめんね』
おそらく顔が赤い(この感じ、たぶん耳まで赤い)ことを、寒いのと勘違いしているのだろう。今この一瞬に関しては、彼女の鈍感さに感謝しようと思う。
「…違うから気にしないで」
なんとも気まずそうにそう言って咳払いをしてから、上着を脱ごうとする彼女の手をそっと止めた。