第3章 幻覚ヒーロー
『待って』
くい、とジャージの裾を引っ張られる。
振り返ってみれば、潤んだ瞳でこちらを見上げている彼女がいて、心臓が急に高鳴りだした。
「………」
――これは・・・やばいな。
”理性を抑える”なんていう、自分とは無縁だと思っていた状況が今まさに自分に降りかかっているのを肌で感じた。
彼女に出会うまでは、これといって女性や色恋ごとに興味など持ったこともなかった人生だったのに。彼女が自分の前に現れてから、それは180度変わってしまったようだ。
自分もちゃんと男だったんだな、と安心したのと同時に少し怖くなった。彼女以外の女性を見ても、見つめられても、何の感情も湧かないのは前と変わっていない。けれど。この目の前のみょうじなまえという女性だけは別だった。側にいたいと思わずにはいられないし、触れたくて堪らなくなるし、自分だけを見てほしいというどうしようもない独占欲や支配欲に駆られてしまう。
自分は割と無欲な人間だと思っていたが、どうやらそれはとんだ思い過ごしだったようだ。一人の女性に対して、こんなにも貪欲に、色々な感情を持ってしまっているのだから。
そんなことを考えながら頭の中で葛藤していれば、彼女の小さな口が開いた。
『手…赤くなってる』
しまった、と思ったときには時すでに遅し、だ。見つめてくる彼女のあまりの可愛さに悶々としていたせいで、手のことをすっかり忘れていた。
「…別に、こんなのすぐ治るから」
もっと気の利いた事はいえないものか、と心の中で後悔していれば、彼女は何やらポケットに手を入れて、そこから取り出したものを差し出してきた。
『これ…女物のハンドクリームで申し訳ないんだけど…手、貸して』
言いながら彼女は、そのハンドクリームを俺の手に豪快にたっぷり出し、あろうことかそれを自身の手で塗ってくれた。静かな廊下に、うるさいくらいに鳴っている心臓の音が聞こえてしまうんではないかとどきどきしながら、俺は手を差し出しながらただただ固まっていた。
そのハンドクリームからは、彼女から時折香る甘い匂いと同じ匂いがした。