第9章 前夜《鱗滝》
少女の目線の先には振り返った男の喉仏が映る。
そこからゆっくりと上に視線を上げれば、薄く閉じられた唇が写り込み、更に視線を上げれば…
「ふふ…今まで何を言っても見せてくれなかったのに…」
数年間一緒に居たのに
その男の顔を見たことは無かった。
「なんて優しい目…」
その言葉に、男の気の流れが不快感から微かに乱れたのを感じ取る。
この男はそう言われるのが嫌で肌身放さずにこの面を付けていたのだから不快に感じるのも可笑しくはない。
長い訓練の中で少女は他人の感情の流れを感じ取ることができるようになっていた。
けれども師であり、自分より実力も格上であろうこの男の気の乱れなど少女は今まで感じたことは無かった。
それを今は感じとれる。
いつでも水面の様に静かなこの男の気の流れが初めて感じ取れたことに、少女は嬉しく思った。
それは男が隠す必要性が無いと思ったからなのか、それともこの関係が今日で終わりを告げる事に男が寂しさを感じているからなのか…それは分からない。
「…笑うな」
「ふふ…笑っていません。お顔が見れて嬉しいのです」
「笑っているだろう」
否定はしたが笑ってしまう。
可笑しいからでは無い。これは嬉しくてそうなってしまうだけだ。
少女は男の頬に手を伸ばした。
共に過ごしてきた弟分達にもする様に優しく触れる。
若い者とは違う肌の弾力と、伸びかけた髭の感触を感じる。
少女よりも倍近く生きている、師であるこの男にそれをするのはどうみても間違っているかも知れない。
けれども男は拒まないのだなと思った。
見つめ返して来る瞳の深さは計り知れない。
男が生きながらに何を感じ、何を思ってここまできたのか、何故育手になったのか。
それは少女には分からない。
少女は背伸びをして男の唇に自分の唇を合わせる。
「…お前の拗らせたそれは、単なる思い違いだ」
手を差し伸べられて、長い間一緒に居た中で勘違いしたものだと、線引きされた気がした。
「…酷い事を言いますね」
今まで触れさえしなかったが、この男が私の想いに気付いていない訳が無かった。
もう私と一緒に居ることはないのだから、もう気遣う必要は無いから拒んでも良いとでも思っているのかも知れない。