第5章 一の裏は六
「嘴平、天春」
理緒は疲労からぼんやりとしていて、冨岡先生が苗字を呼んだことに気づくまで、数秒かかった。
伊之助はその間「おう!」と言って、勢いよく立ち上がっていた。
呼ばれたことに気づいた理緒もはい!と返事をしながら立ち上がろうとして、声が出ないことを思い出す。
……ああ、そうだった。
ふとしたときに、声が出ないことを忘れている。
そのたびに、憂鬱な気分になるのだった。
忘れた自分を恨みながら、立ち上がる。
「お前たちが最初だ」
最初、というのは50メートル走の走者だろう。
どういう基準で順番を決めたのか、理緒には全くわからなかった。
トップバッターというのは注目される。
よりにもよって、何かと騒いで目立つ伊之助との組み合わせというのも輪をかけて嫌だった。
しかし、指名されたからには仕方がない。
「我妻、炭治郎。時間を計って記録しろ」
善逸はすごく面倒くさそうに顔をしかめたが、文句を言ったところで口より手が出るのが冨岡先生だ。
諦めて、炭治郎と50メートル先のゴール地点へ向かう。
理緒と伊之助は並んで、スタート位置につく。
「おい、ふきのとう!!!」
理緒は、そう話しかけてきた伊之助を見る。
ふきのとう?
春の山菜で有名な、蕗の薹だろうか。
食べたいのかな、初夏だけど。
そんなリクエストをされても困ると、眉を顰める。
「俺はとっても強いからな!!」
何故、張り合う。
そして、ふきのとうの話はどこへ行ったのだろうか。
元気が有り余っていて少しばかり羨ましい。
「位置につけ」
そんなこと気にもとめない冨岡先生がそう告げる。
言われた通りに、位置につく。
そこで、ふと、わかってしまった。
ふきのとう、それは私の名を呼ぼうとして間違えたのだと。
いや、私の苗字は天春で、全然違うんだけど。
「よーい」
深く息を吸って、集中する。
笛の音が響くと共に、走り出した。