第20章 ふりふられ
「水、(じゃなかった)······冨岡さん?」
見覚えのある羽織が目にとまり、星乃は男の背に向かって少々ぎこちなく呼びかけた。
振り返った美麗な顔立ち。
その男、冨岡義勇である。
やっぱりそうだわと、道行く人を数人かき分け、星乃は義勇との距離を縮めた。
傍らまで歩み寄り、こんにちは。と一礼する。
「先日の柱稽古では大変お世話になりました。冨岡さんもお買い物ですか?」
「······」
町の商店街。鮮魚屋の前だった。
義勇はしばし深い海のような眼球で星乃を眺め、そして、ああ、たしか。とでも気づいたように唇をほんのりと開かせた。
「飛鳥井か」
「はい。ふふ、覚えていてくださってよかった」
義勇といえば、柱稽古中は一般隊士たちの名前を違えて呼んでしまったり、即座に口にできないことが多かった。
総勢数百名の隊士をまとめてお世話するのだから当然といえば当然である。星乃も隊員すべての顔と名前は一致しない。
他の柱たちより遅れること数日、星乃は水柱の稽古ではじめて義勇との対面を果たした。その際、『水柱様』と声をかけた星乃に『敬称は不要だ』と義勇が漏らしたこともあり、呼び名を『冨岡さん』に変更するに至った。
しかし実弥との会話では長いこと柱名で呼んでいたため、まだうっかり水柱様と口にしてしまいそうになる。
「ここのお魚、とっても新鮮で美味しいのでおすすめですよ。あ、親父さんすみません、鮭の切り身を二切れくださいな」
「······、」
鮮魚屋の店主に声をかけると、「はいよ! 鮭ね!」と威勢の良い返事が返った。
義勇の挙動が少々揺らいだことには星乃も店主も気づかない。
ここは風柱邸から一番近くの町に構える鮮魚屋だ。
星乃は実弥と共によくここへ足を運ぶが、この町で義勇と遭遇したのははじめてだった。
渡された切り身を金銭と引き換えに受け取る。すると、義勇はなぜか星乃の手もとをじっと見つめていた。
「? どうかしました?」
「ああ···いや、鮭が」
「鮭」
鮭が、だけでは義勇の思いをすぐに汲み取ることが出来ず、星乃は不思議そうに小首を傾げた。