第10章 潜熱の訪れ ( 誕生日 )
まだ、帰ってきていないみたい。
風柱邸の玄関前で、星乃はくるりと踵を返した。
山間 (やまあい) の向こう側から朝焼けが姿を見せたのはつい先刻で、たまゆら遠慮がちな太陽は蜃気楼のように揺れながら木々の葉の輪郭を刻々と生み出してゆく。
曙色がのんびりと空全体に広がってゆくさまが美しく、星乃は双眸を細めて微笑んだ。
実弥は任務から戻っていないようだった。
屋敷は扉という扉がすべて締め切られており、ひとの気配もない。
敷地内から外へ出て、星乃は門扉の前で待つことにした。さすがに留守中断りもなく邸内に身を置くのは忍びないと思った。
ぼんやり辺りを眺めていると、バサッ。空中から羽音が聞こえた。
見上げた先では鎹鴉がくちばしに"あるもの"を咥え旋回している。
「も、紅葉 (もみじ) さん? 待って、まだ早いわ。合図したらお願いねって頼んだでしょう?」
「ンンン、クタビレタ! モウ待テナイノヨウ!」
足もとに降り立つと、鴉は狼狽する星乃をよそに咥えていたものを地面に置きくちばしで宙を切る。
「そんなこと言わないで、お願いよ紅葉さん。もう少しで実弥も帰ってくると思うから」
「ツーン」
「紅葉さん~!」
【紅葉】とは星乃の鎹鴉である。しかし刻下の彼女はすこぶる機嫌が悪かった。
本当は、この日のために紅葉の好物の焼き栗を用意しておくはずだった。のだが、忙しなくしているうちに星乃の頭からはすっかりと焼き栗が抜け落ちていた。
前日、町へ出かける際確かに約束を交わしていた。
「お土産に焼き栗を買ってくるわね」と言い残して出ていったものだから、紅葉は星乃の帰宅を今か今かと待ちわびていたに違いない。
紅葉に頼みごとをするときは、町に店を構える【久里家】の焼き栗がまずもって効果的なのだ。
昨日に限って忘れていた。などという言い訳が通用するはずもなく、紅葉の機嫌を損ねたまま夜の任務へ向かい、今に至る。
「このあと絶対に忘れずに買ってくるから······ね、紅葉さ」
「···何してんだァ? おめぇらは」
背後から声がして、振り返ると実弥が訝しげな顔つきで星乃たちを見ていた。