第18章 引っ越し
「リネルさ、もらいに行ける?」
「何を?」
「婚姻届」
「ああ。…………」
結婚するのだから提出は当たり前ではあるが。重みある言葉が出てくれば緊張感にドキリとした。平常心を取り繕って、携帯電話で役所の場所と仕事のスケジュールを確認しながら 返事を返した。
「来週…、ん〜 頑張れば明後日行けるかな…仕事の合間にもらってくるよ」
「よろしく」
それだけ言うとイルミは部屋の入り口に足を進める。ドアノブに手を掛けると くるりと振り返ってくる。
「オレはこれから仕事だから。行ってくる」
「…………………」
「なに?」
「……いや、……」
あまりにもじっと見入ってしまったせいか、イルミもこちらを見返してくる。今この会話が、リネルには新鮮で仕方なかった。
「私こういうの初めてだ」
「なにが?」
「行ってきます、とか、行ってらっしゃい、とか」
リネルにすれば当たり前。ずっと一人暮らしをしていたし家族らしい家族だっていなかった。
単純なやり取りが照れ臭くも妙に嬉しいものがある。
「私が仕事から帰ったら“おかえり”って言ってくれて、出かける時は“行ってらっしゃい”って言ってくれるんだ」
「時間が合えばの話だけどね。」
「そうだけど、なんかイイね。こういうの」
「なら言ってみて」
「え?」
「これから出掛けるの、オレだから」
一番手とは不本意だが。
言い慣れていない言葉だけにリネルはつい口篭る。ちらちら何度もイルミの顔を伺いながら 気まづそうな小声を出した。
「い、いって らっしゃい……」
「そのたった一言でどもり過ぎじゃない?」
「し、仕方ないでしょ!慣れてないんだから!……早く行きなよもう!!」
「酷い言い草だな。まぁ いいや、行ってきまーす」
余裕有り余る伸びやかな語尾を残して、イルミは颯爽と部屋を去る。それを確認してからリネルは再びソファに背中を沈めた。
「……いよいよ、なんだなー」
ちょっとした事で、小さな事で、こんな風に照れていたら埒があかないだろう。ぽつりと呟いてから 左手を持ち上げて薬指の指輪を見つめてみた。