第76章 妊娠記録⑤終わりと始まり
潮の満ち引きの関係だとか、統計でそういう数値があるだとか、世に言う陣痛なるものは夜間に訪れる事が多いと 知識としては心得ていた。
念能力者であろうが ヒトという生物体として見れば例外ではないようで、リネルの場合も それはピタリと日が落ちた頃にスタートしたのだった。
痛みに強いと誇大妄想を持っている訳ではないが、戦闘や修行を通ってきたハンターであるし 体力には自信がある。女性における出産とは命懸けの行事であると思いつつも 案外すんなり終わるであろうと些か高を括っていた、というのが後後思えば本心だった。
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夕方過ぎ。
リネルはゾルディック家の中にある医務室内のベッドの上にいた。医務室の存在は知ってはいたが 実際に足を踏み入れたのは、産休に入ってからが初めてだった。とかく有能な使用人が多いこの屋敷には 常駐の医師や看護師もいると言うから今更ながらに驚きである。
リネルの傍らには食事の盆を持った看護師と医者、そしてその横には この場に不似合いな迄に普段の厳かな雰囲気を崩さないツボネの姿があった。
既に何度目かになる 看護師の優しげな声が耳に届いた。
「リネル様 痛みのご様子はいかがでしょう?」
「…ちょっと痛いというか 違和感というか」
「前駆陣痛というものですね。夕食 お召し上がりになれそうですか?」
「あまり食欲はないで
「食べられる時に食べられる物だけでも召し上がり下さい。先はまだまだ長いですし 何より体力勝負ですから」
「…頑張ります、…」
この場で権威をかざすのは 医者でも当事者でもなく、どうやらツボネのようである。
目の前に差し出される盆の上にある料理の中から 柔らかそうな食材だけを小さな口で食してみた。