第9章 彼女の願い事
あの後散々嘔吐したおかげで、二日酔いにならずに済んだ。
昨夜はベックマンの家に泊まらせてもらった。
目が覚めるとペットボトルに入った水が頭元に置いてあって、彼はいない。仕事に行ったのだろう。
陽はすでに高く、カーテン越しに照りつける光が眩しい。
水を飲んで一息つくが、気分は全くすぐれなかった。
(アンがおれの娘だなんて、やっぱり信じられない……)
ベックマンの話だとセイラは実家に戻ってアンを産んで育てたらしい。
東京に戻ったのは一年と少し前。小料理屋を出すことを応援してくれた人がいたという。
二人のことを考えていると、ひどく左腕が痛み出す。二人も左腕も同じ失ったものだからか。
セイラのアパートのチャイムを何度か鳴らしたが応答はなく家にはいないようだ。
シャンクスはそのまま小料理屋に向かう。開店時間にはまだ早いが、準備とかをしているのかもしれない。
予想は的中した。シャンクスが「ごめんください」と声をかけてから引き戸を開けると、セイラは下準備をしている最中だった。隣にはアンもいて、小さな子ども用の包丁を握っていた。
「どうしたの?忘れ物はなかったと思うけれど」
不思議そうなセイラに話をしたいと持ちかける。瞳が揺れて表情が少しだけこわばったが、アンを置いて一緒に店の外に出た。
「ベックマンに聞いたんだ。あの子の父親はおれなんだろ?」
セイラはやっぱり、というような顔をした。昨日から心の準備ができていたのだろう。
「ごめんなさい。どうしてもあの子を産みたかったの。今さら何かをしてもらおうとは思っていないから。私はアンと二人でとても幸せなの」
「一人で養うなんて大変だろうが。おれにできることなら何でもする。金はねぇが、養育費が必要なら頑張って働くよ」
「いいのよ」とセイラは笑った。
「私達のことは気にしないで。あなたには自由に生きてほしいのよ」