【文スト】Vanilla Fiction【江戸川乱歩】
第5章 秋
「成美、いるんでしょ。開けてよ」
成美の住む安アパートに、玄関チャイムなどというものはない。木製の扉を叩く音に沈んでいた意識が浮上する。扉一枚隔てた向こうから聞こえるのは紛れもない乱歩の声で、成美はしばし硬直した。
「……鞄、落としたままだった。持ってきたから開けて」
ああそういえば、と成美は頬をつねって完全に目を醒す。鍵は上着のポケットに入っていたけれど、携帯端末も財布もすべてあの鞄の中だ。なくては生活に困る。そうは思っても、さっきの今で乱歩と顔を合わせることに抵抗があった。
逡巡して、ほんの少しだけ扉を開けた。
「……わざわざ、すみません。ありがとう、ございます」
「………」
「あの、乱歩さん……?」
うつむいて黙ったままの乱歩をそのままに扉を閉めることができず、せめて表情を確認しようと顔を覗き込む。とたん、乱歩は成美を押し退けて、扉のすき間に身を滑り込ませるとそのまま閉めて鍵をかけた。
「ら、乱歩、さん?」
「ねえ、成美は、社長と、──福沢さんと、どういう関係なの?」
「っえ?」
乱歩の強行もさることながら、なぜそんなことを訊くのかわからずに驚く。
ようやく顔を上げた彼は、いつも楽しげに笑っているのに、今は何だか泣きそうな、ゆがんだ表情をしていた。ああ、また──
──見たことのない表情。
「福沢さんに、抱かれたの?」
「っひ、あの、ら、乱歩さ、」
「答えてよ」
そんな質問には、答えられるわけがなかった。かつて愛した初恋の男の話を、今恋している男にできるはずがない。
成美の異能は〝嘘がつけない〟というだけのもの。ただ黙っているだけなら嘘にはならないのだと、成美は経験則で知っていた。
成美は絶対に口を開くものかと唇を噛みしめた。うすい皮膚を犬歯が突き破り、口内に鉄の味が充満する。
口端から流れ落ちたひとしずくの血に、やわらかい舌が這った。
「ねえ成美、僕のことが好きだろ?」
「っあ、何を……」
「言ってよ。僕のことが、好きだって!」
叫んだ乱歩が、ひどく憐れに思えて。
「す──好き、です。乱歩さんが、好き」
──何もかもわかってしまうというのは、憐れでならない。