【文スト】Vanilla Fiction【江戸川乱歩】
第5章 秋
成美の持っていた鞄がすべり落ちて、鈍い音を立てた。その眼は大きく見開かれ、目の前の男を凝視している。そしてそれは、成美の目の前に立っている男──福沢も同じだった。
「──ふ、ふく、ざわ、さん……?」
「……成美、か?」
再会を、待ちわびていたはずだった。こうしてまた会える日を願って、ただそれだけで生きていたはずだった。
──なぜ、今なの。
街中で、ばったり再会できればよかった。そのまま働いている喫茶店に来てもらって、今自分はこんなにも恵まれていると胸を張って言えれば。
成美には福沢に話したいことがたくさんあった。その中には、当然乱歩との日常もあって。
──やっと、あなたの言った人に巡り会えて、幸せだと。
何の因果があるというのだろう。乱歩の恩人が福沢で、成美の恩人も福沢で。そして、成美のはじめて愛した男が福沢だった。ただ、それだけのこと。
──あの夜があったから、今まで生きてこられた。ただ、それだけなのに。
乱歩を振り返るのが、ひどく怖かった。
「……っわ、私、今日はもう、帰りますね。お招きいただいて、ありがとうございました」
「っあ、成美!」
「ごめんなさい、この埋め合わせは必ず……!」
うつむいたまま、乱歩と福沢に背を向けて、成美は勢いよく走り出した。中島や谷崎も、国木田の制止も振り切って、一目散に家路を辿る。
落としたままの鞄のことなど、すっかり忘れてしまっていた。
───
「ねえ、社長。成美と社長は、」
「………」
福沢が成美と聞いて思い出すのは、初対面のときの表情。親を殺された可哀想な少女だった。それでも、芯が強く射抜くような視線をしていた。
──一度でいいんです、私を、抱いてください。
思い出だけで生きていけるから、と彼女はたしかにそう言った。幾度断っても折れず、ひどくするぞと脅しても屈せず、あの視線で福沢を貫いた成美をしかたなしに抱いてしまったあの夜。今にも死んでしまいそうな眼をしていた彼女がそれを境に変わったから、後悔はしていなかった。けれどまさか、成美の二度目の男が、あの乱歩であるなんて。
あの夜、成美を抱いたことを、福沢ははじめて後悔していた。