【文スト】Vanilla Fiction【江戸川乱歩】
第3章 春
ちょっとすみません、とカウンターを抜けて奥の厨房に入る。スパゲティやサラダなどの食事メニューを作るための場所だったけれど、注文は入っていない。なぜ成美がこの場所に来たかといえば、それは、
──びっ……くりした……。
熱くなってしまった頬と頭を冷やすためだった。
まさか乱歩相手にはやし立てられてしまうとは。思いもよらない事態に鼓動が早まる。
これがほかの誰であっても、成美はここまでの過剰反応をしない。相手が乱歩だったというのが悪かった。
──乱歩さんは、気を悪くされていないかしら。
自分があのとききちんと笑えていたか。ごまかせていたか。言葉選びを間違えはしなかったか。呂律は回っていたか。
──考えれば考えるほど不安要素が多すぎる。
これは恋なのか、と今まで何度自問自答を繰り返してきただろうか。そのたびに成美は自分の奥底にある気持ちを見て見ぬふりをし続けていた。これは恋ではない、と。
しかして、今のこの事態はなんだろうか。これは恋なのだと自分自身が主張している。
──私、恋をしているんだわ。
福沢のときとは、また形の違う恋だった。
恋とは、全身に毒が回ったように体が熱くなって、心と魂が想い人を求めて止まなくなって、燃えるような赤い色をしているのだと成美は思っていた。けれど──
──私のこの気持ちは、ぜんぜん違う。
体ではなく、心がぽかぽかとあたたかくなって、近くにいると居心地がよくて、安心できて、それでもどきどきと鳴る鼓動はいつもより早い。春のような、うすい桃色をしていた。
──乱歩さん。
ぼっと燃えるように頬が熱くなったと思ったら、体の奥の奥がきゅうっと心臓を締め付ける。
──これは、たしかに恋だった。