【文スト】Vanilla Fiction【江戸川乱歩】
第3章 春
成美が厨房へ消えたあと、乱歩は〝乱歩さんスペシャル〟を食べる手を止めて、糸目をそちらへ向けた。
乱歩は、成美が食事メニューを作るときにしか厨房へ行かないのを知っているし、今は食事メニューの注文がないのも知っていた。
──後ろ姿の、赤い耳。
恋愛なんて、面倒くさがりで飽き性の自分には向かないことを乱歩はわかっていた。だから今まで、恋人など作ろうと思ったこともない。
それでも成美のいる店に通ってしまうのは、乱歩にとってそこが居心地のいい場所だからだ。
──あのときの。
『江戸川さん』なんて堅苦しく呼ばれることに辟易して、『乱歩でいい』と言ったときの成美の顔が忘れられないのはなぜか。
いつもはすっとすました顔を赤く染め上げ、へにゃりとゆるみきった笑顔を晒したにも関わらず嬉しそうに『乱歩さん』と呼ぶやわらかい声音を。
──今も脳裡に焼きついて離れない、成美の存在。
たしかにこれは恋なのだと、自分の持てるすべての推理力がそう言っていた。
──きっかけは何か。
それだけが好ましいわけではない、でもたしかにきっかけになったものは。
──成美の異能力。
〝嘘がつけない〟というのは、あのときの乱歩にとってはただ好都合の材料にすぎなかった。
けれどパフェの味が気に入って、喫茶店に通うようになってから、成美のそばが異様に居心地がいいことに気がついてしまった。
乱歩はその類まれなる推理力のせいで、人が人に対してつく嘘に辟易していた。成美の言葉を借りるなら、『人は嘘で自分を着飾り複雑に生きていくもの』だから。
どんなに複雑な人間模様も、乱歩にとっては単純な幾何学模様にすぎなかった。
けれど、成美は嘘をつかない。それは異能を使わなくてもわかることだった。だから乱歩は、成美のそばでは安心していられる。
──たしかにこれは恋なのだと、自分の持てるすべてが言う。
乱歩に、抗うすべはなかった。