第8章 Water
「...で、結局合宿中のお昼はずっと鯖カレーだったわけね」
「...ああ」
しかめっ面の凛と笑いを抑えきれていない汐。この日は合宿の土産話に花が咲いていた。
「しかもとんでもねぇ量なんだよ。あんなに食えるかっつの。しばらく鯖もカレーも見たくねぇ」
「て言って今日の晩ご飯、鯖だったりして」
「お前そーいうこと言うんじゃねぇよ」
本気で嫌そうに眉を寄せた凛に汐は思わず吹き出す。
あははと笑う汐に対して笑いごとじゃねぇんだよ、と文句を言いつつも凛は理由はわからないが内心少しホッとした。
凛が汐と最後に会ったのは合宿前、汐が鮫柄に合同練習の打ち合わせにきた日の帰り道だった。
あの日見た汐の表情の陰りと悲しそうな笑顔がずっと胸の奥にへばりついていた。
今、自分の隣にいる汐の笑顔はこれまでのそれと同じものだった。
凛の中の汐はいつも笑顔だったから、あの日初めて見た暗い表情には驚きを隠すことができなかった。
笑顔の印象の強い彼女には笑っていてほしかった。
だからいつも通り笑っている汐の姿に安心したのかもしれない。
凛はそう思うことにした。
誰でも、トモダチには笑っていてほしいと思うだろう。
6月が過ぎ7月を迎えた。日中は暑いが日没後は涼しかった。
心地の良い風が凛と汐の頬を撫で髪を踊らせる。
と、汐はつんと鼻をつくにおいに気づいた。
水泳部特有の、プールに入った後に残る塩素のにおいだ。
最近量を増やしたのか、今日は凛の体から塩素のにおいがする。
「松岡くん今日塩素のにおいがするね」
「は?」
すんすんと凛は自分の腕や手首を嗅ぐ。だが自分ではわからないらしく汐に対して、くさいか?と訊いてきた。
汐はこのにおいが嫌いではなかった。
塩素のにおいは普段部活で嗅いでいるのに、凛から漂ってきた塩素のにおいには胸がきゅっと締め付けられる思いがした。
なんだか懐かしかったのだ。そのにおいは汐の閉ざしていた過去の記憶の扉をたたく。
懐かしさを噛みしめ、そして押し殺し記憶の扉に鍵をかけた。
「大丈夫、くさくないよ」
このまま塩素の話をしていると懐かしさに負けてしまいそう、そう思った汐は話題を合同練習にシフトした。
もうすぐだね、と汐は笑った。
もうすぐという汐の言葉通りその週はすぐに過ぎていった。
そして合同練習の日がやってきた。