第2章 暗闇
信長は、女を見ることなく立ち上がると、バサッと着物を脱ぎ捨てた。
「もう良い。……城から出て行け」
冷たく言い放つ信長。
何処からともなく現れた小姓が、彼に手早く別の着物を着付けている。
女は、くすんだ白地に桔梗の花が描かれた打掛けを羽織り、薄茶色の長い髪を油で整えている。
一見、清楚な感じを受けるが、平凡な顔が全てを台無しにし、煌びやかな部屋には似つかわしくなかった。
その存在自体が、信長を苛立たせる。
着替え終わった彼は、刀を腰に挿すと、女を睨みつけた。
しかし、
赤く腫れた手を押さえる女は、怯む事なく睨み返す。
だが、その目には涙を浮かべていた。
信長は、軽く叩いただけだが、それくらいでと忌々しげに舌打ちをした。
「信長様、わたくしは……」
女が口を開く。
が、信長は、それを許さず言葉を遮る。
「喧しいっ! 貴様、死にたいのか?」
「信長様、話を……」
「帰蝶、貴様と話すことなどない。……秀吉、早うこの女を城より追い出せ」
「はっ、ははぁ。直ちに!」
「信長様っ! お話を聞いて下さいませ」
帰蝶と呼ばれた女は、凛と通る声で訴え、信長を睨んでいた。
「……貴様……」
睨み合う信長と帰蝶に、秀吉は冷や汗をかき、どうする事も出来ず狼狽えていた。
そんな秀吉を一瞥した信長は、彼女に背を向けると、口を開いた。
「帰蝶、貴様は名ばかりの正室。だが、それも何年も前の話。一度しか会うた事がない貴様が、何用だ?」
「……っ、離縁済みなのは、承知しております。……お話とは、明智光秀の事です。……明智は、貴方様に召し抱えられ、人が変わった様になりました。わたくしに会って下さいません。明智に、何を仰ったのですか?」
信長の眉がピクリとした。
そして、素早く抜刀すると、流れるようにその刃先を帰蝶に向けた。
「貴様、よほど死にたいのだな。何もかも思い通りになると思うな」
「信長様、わたくしは死んでも構いません。齢三十二。今更、再嫁することもありません。ですが、わたくしの光秀を返して頂きたいのです」
「『わたくしの』だと……?」
信長は、眉間に皺を寄せると、ギュッと目を瞑った。
そして、大きな溜め息を吐くと、目を開けた。
「……っ⁉︎ お屋形様っ!」
思わず叫んだ秀吉が見たものは、右目が濃藍色で、左目が燃えるような赤に変わった信長だった。