第88章 蠢く脅威<壱>
「『ここは女にとっては辛くて苦しい場所だけれど、生きていれば明日は必ず来る。明けない夜なんてない。前が見えなくて怖いかもしれないけれど、足を止めてはいけない。最後の最後まで顔を上げて胸を張る』」
「え?」
「ずっとずっと昔、ここに来ていたお客様が、みんなに言っていた言葉らしいの。派手な出で立ちで仲間の人から怒られたりもしていたらしいけれど、とても優しくて誇り高い人だったらしいわ。たくさんの人がここから出られる手助けをしてくれた素晴らしい人だって。その人は海旦那って呼ばれていて、今でも伝説になっているそうよ」
その話を聞いた瞬間、汐の唇が小刻みに震え、その目からは涙がぽろりと零れ落ちた。それを見た鯉夏は慌てて布を取り出し、汐の涙をふいた。
「どうしたの汐子ちゃん。大丈夫?」
「大丈夫。ごめ、ごめんなさい。何だかその人、あたしを育ててくれた人にちょっとだけ似てて・・・。その人もあたしに何があっても絶対にあきらめるなって言ってくれたんです」
汐は涙を乱暴にぬぐうと、凛とした顔で鯉夏を見つめた。
「あたし諦めない。本当に須磨花魁があたしの姉ちゃんか、必ず確かめる。ついでに炭子も。だから鯉夏花魁も諦めないでね」
汐のその言葉に鯉夏は微かに目を見開いたが、優しい顔つきで頷いた。
「じゃああたし戻ります。稽古の続きをしなくちゃ」
「嗚呼ちょっと待って」
立ち去ろうとする汐の手に、鯉夏は小さな飴玉をこっそりと握らせた。
「これは話をしてくれたお礼。みんながいないときにこっそり食べるのよ」
「あ、ありがとう」
「それと、また会いに来てくれる?何故だかわからないけれど、あなたと話しているととても不思議な感じがするの。なんというか、あなたの話をもっともっと聞きたいと思ってしまうから」
駄目かしら?と小首をかしげる鯉夏に、汐はぶんぶんと首を横に振った。
「あたしでよければいつでも」
そう言って汐は飛び切りの笑顔を鯉夏に向け、鯉夏もまたつられるように笑顔になるのだった。