第73章 狂気の目覚め<肆>
その瞬間。汐は奇妙な感覚を感じた。それは既視感。この鬼の気配に覚えがあるような気がした。
勿論、そんなはずはない。このような恐ろしい鬼の気配など、一度であってしまったら二度と思い出したくない程の恐怖の記憶として刻まれるはずだ。
しかし、その奇妙な既視感に混ざってもう一つ。汐は奇妙な感覚を感じていた。その気配を感じているうちに、何故だか。胸を締め付けられるような強い悲しみが汐の中に流れ込んできた。
まるで光の届かない深海のような、冷たく、暗い、悲しみの感情。
「嗚呼・・・・」
汐の口から小さく声が漏れ、同時に彼女の両目から涙があふれ出した。それを見た鬼は少しだけ目を細めると、汐に止めを刺そうと一歩踏み出した。
――その時だった。
「――様・・・」
「!?」
汐が無意識につぶやいた【名前】に、鬼は思わず足を止めた。その目は微かに震え、動揺すら宿っている。
それは自分の名ではなかったが、目の前の少女が知るはずのないその名前に、鬼は驚きを隠せなかった。
「何故・・・その名を・・・知っている・・・?まさか・・・そこに・・・居るのか・・・?」
――。
鬼が呟いたのは汐とは異なる誰かの名前。しかしその声は列車の音にかき消され、汐の耳に届くことはなかった。
鬼はそのまま、誘われるように汐に近づき、その右手で彼女の顔に触れようとした、その時だった。
「っ!」
伸ばされた鬼の、指先がぽろりと落ち、そこから赤い雫が零れ落ちる。視線を動かせば、そこには荒い息で刃を構える汐の姿があった。
「舐めるんじゃないわよ・・・。例え、例えあんたよりちっぽけで弱くても・・・あたしは・・・私達は・・・お前らなどに憐れんでもらうほど落ちぶれてはいない!!」
汐の鋭い声が響き渡り、空気を震わせ鬼の耳に届く。その目には恐怖自体は消え上せてはいないものの、確かな矜持と決意が宿っていた。
鬼は汐がまだ動けたことや、何より切断するつもりで斬撃を放ったはずなのに、その腕がまだついていることに驚きと高揚感、そして遺憾に思った。