第60章 兆し<肆>
顔中から汗が瞬時に吹き出し、床に雫を落としていく。
(無惨様だ・・・無惨様の声。わからなかった。姿も気配も依然と違う。凄まじい精度の擬態)
「も、申し訳ございません。お姿も気配も異なっていらしたので・・・」
「誰が喋って良いと言った?貴様共のくだらぬ意思で物を言うな。私に聞かれたことのみ答えよ」
紅一点の下弦の肆の言葉を、無惨はぴしゃりと跳ねのけ言い放つ。その言葉に全員がガタガタと身を震わせた。
「累が殺された。下弦の伍だ。私が問いたいのは一つのみ。『何故下弦の鬼はそれ程まで弱いのか』」
口調は静かなものだがその顔には青筋が浮かび、無惨が憤っていることが見て取れた。
「十二鬼月に数えられたからと言って終わりではない。そこから始まりだ。より人を喰らい、より強くなり私に役に立つための始まり」
無惨は少し目を伏せた後、再び冷徹な声で話し始めた。
「ここ百年余り、十二鬼月の上弦は顔ぶれが変わらない。鬼狩りの柱共を葬ってきたのは常に上弦の鬼たちだ。しかし、下弦はどうか?何度入れ替わった?」
あまりにも理不尽な問いかけに、下弦の陸は思わず心の中で(そんなことを俺たちに言われても・・・)と呟いた。すると
「“そんなことを俺たちに言われても”。なんだ?言ってみろ」
先程考えていたことをそのまま言い当てられ、下弦の陸の全身に冷たいものが走る。
(思考が・・・読めるのか?まずい・・・)
「何がまずい?言ってみろ」
そう言って顔を上げた無惨の顔には、いくつも青筋が浮かんだまさに鬼の形相が張り付いていた。
鬼舞辻無惨。彼は己が血を分け与えたものの思考を読み取ることができる。
姿が見える距離ならば全ての思考の読み取りが可能であり、離れれば離れる程鮮明には読み取れなくはなるが位置は把握している。そう、位置は把握しているのだ。
だから禰豆子が産屋敷邸に連行された時点で、通常ならば本拠地は彼に知られていた。しかし、無惨はそれをいま把握できていないのは。
禰豆子が珠世同様、彼の呪いを自力で外しているからである。が、それをまだ知らない。