第7章 慈しみと殺意の間<壱>
(え、下りるって、今から?あたし、生まれてから山登りも山下りもしたことなんかないんだってば)
いくら体を鍛えているとはいえ、海で長い間育った汐にとっては山など未知の中の未知だ。そんな中何も知らない素人を置き去りにするなど、何を考えているのかわからない。
不幸中の幸いだったのが、その日がひどく快晴で霧がほとんど出ていなかった。これならば視界は悪くないし、何とかなるだろう。
――山に仕掛けられた罠にかかるまでは。
「!!」
先を急ごうと一歩踏み出した途端、突然複数の石が飛んできた。あわててかわそうとするも、足がもつれて転んでしまい膝からは血がにじみだした。
痛みに耐えつつ前に進もうとすると、今度は落とし穴が彼女を襲う。間一髪で落ちることは免れたものの、このままではいつまでたってもこの山の牢獄から抜け出せない。
(どうする?どうする!?こんな時、こんな時は――)
――焦ったら何もかもうまくいくわけがねえ。そんな時は深呼吸をしろ。古典的な手だが、結構効くんだなこれが。
脳裏に玄海の茶化した声が響く。それを思い出した汐は、深く大きく息を吸った。
(そうだ。あたしには、呼吸があるじゃないか!そしてここを山だと思っちゃだめだ。あたしが今までいた場所を思い浮かべろ)
汐は目を閉じて意識を集中させる。そして再び大きく息を吸い込む。
すると汐の目の前の景色が、緑色の山から青々とした海底へと変化した。薄暗く、泡で視界もいいとは言えず、毒をもった生物や肉食の魚がうろつく、自分の修行場所。
それからというものの、汐は襲い来る罠を、文字通り泳ぐように避けながら進んだ。飛んでくる石や丸太は、自分めがけて襲ってくる魚のように見え、落とし穴は自分を引き込む渦潮に見える。
これならば毎日毎日、死ぬ思いをしながらやってきたことと大差ない。
それから幾つ罠を回避したかわからなくなってきたころ。ようやく汐の視界に光が見えた。それはまるで、水面から差し込む光の柱のようだった。
それをめざし汐はひたすら突き進む。そして・・
小屋の扉を突き破るほどの勢いで、汐は中へ転がり込んだ。そこには鱗滝が、全てを見透かしたように立っていた。