第30章 歪な音色(前編)<参>
汐が口鬼と戦っていたころ。
善逸と正一は舌の鬼から必死に逃げ回っていた。自分たちは食べてもおいしくないからと嘆願するも、鬼がそれを聞き入れてくれるはずもなく状況は変わらなかった。
鬼が舌を伸ばし、二人に襲い掛かる。間一髪で善逸が正一を抱えて難を逃れるも、舌が当たった水瓶は木っ端みじんに砕け散った。
「何それ舌速ァ!!水瓶パカッて、ありえないんですけどおお!!」
庇った勢いで二人は襖を突き破り、畳のある部屋へ飛び込んだ。正一は立ち上がると、善逸に立つように促す。
しかし善逸の膝は恐怖のあまり震え、まともに立ち上がることすらできなかった。
「お、おお俺のことはおいていけ!逃げるんだ!」
自分が完全に足手まといになっていることを承知していた善逸は、正一だけでも逃がそうと試みる。しかし彼はそれを拒否し善逸を引っ張った。
(な、なんていい子なんだ!!こんな怯えた【音】になっているのに!!)
善逸は涙と鼻水で汚れ切った顔で正一を見る。顔は青ざめ息は荒く、心音もかなり早くなっている。怯えているのは明らかなのに自分を見捨てようとはしていない。
(俺が何とかしなくちゃ・・・!俺が守ってあげないと可哀そうだろ!!享年が一桁とかあんまりだぞ!)
だが善逸の気持ちはそれとは裏腹にしぼんでいく。自分は弱い、過ぎるほど弱い。だから守ってあげられる力がない。けれど守りたい。助けたい。
――何より、汐との約束を守りたい。
先ほど彼女が言った正一を守れという声が響く。あの声を聞いたときにわいてきたわずかな勇気を、善逸は絞り出そうとしていた。
だが、追いついた舌鬼はそんな彼を嘲笑い、首を傾ける。
「お前の脳髄を耳からじゅるりと啜ってやるぞ」
その瞬間。善逸の中で恐怖と責任感が弾けた。彼の体はそのままぐらりと後ろに倒れる。正一が受け止めたせいで頭を打つことはなかったが、その顔からは規則正しい寝息が聞こえてきた。
この状況で眠ってしまった善逸に、正一だけではなく鬼までもが戸惑う。だが、鬼は直ぐに我に返ると舌を二人の方へ伸ばしてきた。
殺される!!正一が善逸の名を泣きながら叫んだその瞬間。
突然、伸ばされたはずの舌が宙を舞った。鬼が悲鳴を上げ、血の飛沫が静かに舞う。
そして、眠っていたはずの善逸の体は、正一を庇うように前に立っていた。