第3章 嵐の前の静けさ<弐>
その日の曇りの朝、汐は玄海が用意した着物に着替え、出かける準備をしていた。外出用の着物の上に玄海が用意してくれた浮世絵の波のような文様が描かれた羽織をまとう。
そして、薬代の他に紫色の小さな巾着を渡された。
「これは鬼除けの藤の花のにおい袋だ。鬼ってのは藤の花が苦手でな。此奴を持っていれば、普通の鬼は寄ってこねえ。お前は鬼なんていないなんて思っているかもしれねえが、奴らはそういうやつを常に付け狙ってる。つべこべ言わずに持っていろ」
と、半ば強引に押し付けられた。
「んじゃ、行って来い。わかっていると思うが、夜までには必ず帰ってこい」
こうして玄海に見送られ、汐は港町に向かうことになった。
港町は汐の住む村からかなり離れたところにあり、徒歩で行けばかなりの時間を要してしまう。
しかし玄海はその距離を歩くことを命じた。これは一日の大半を水中で過ごす汐が、陸に慣れるための訓練でもあった。
水の中と違い、陸では体が重く感じる。それは、水中にある浮力が陸の上ではないからだ。それでも、人間は陸の生き物である故、この環境にも慣れなくてはならない。それが、玄海の狙いだった。
町に着くと、汐はやっとついたといわんばかりに背筋を伸ばす。今日ほど水の中にいなかった時間が長いことはなかった。
どんよりとした曇り空だというのに、町はたくさんの人々であふれており、あちこちから物を売る元気な声が響く。そして何かを焼く香ばしい香りや、磯の香りも交じって汐の鼻先をくすぐった。
(今まであまり来たことはなかったけど、港町ってこんなに人がいっぱいいるんだ・・・!)
あまり村の外に出たことがなかった汐は、全く違う世界に少し戸惑いながらも胸を弾ませた。
だが、今日は遊びに来たのではない。玄海の病を治す薬を手に入れなければならないのだ。
しかし汐は相手がどのような人物なのか全く知らない。玄海に何度も聞いたが、『別嬪の姉ちゃん』としか返ってこなかったのだ。