第57章 なんかあったら言えよ
伸ばした手はそれを掴むことなく、彼女はバッグを手に引っかけ慌てて走り去ってしまった
ペタンと座り込んだ紫苑
薄目を開ける夜一
「はぁ…」
結局弁明してあげることもできなかった
黒崎くんに言われたこと
井上さんに言われたこと
言いたかったこと
なんだか上手くいかない
このモヤモヤをどこかにぶつけたくて、吐き出したくて、飲み込んだ
…─
井上さんは、私が黒崎くんを好きなんだと思っている
黒崎くんに抱き締められたのを、抱き締め合っていたと勘違いしている
早く、誤解を解いてあげたいのに、あの時追いかければ良かったのに、なんでだろう…
足が重かった…
『…かネ?…紫苑!』
私が浮気をしていると思っているんだろう…
喜助さんなら、そんなことはないと信じてくれるけど…
『おい!聞いているのかネ!紫苑!』
「…!は、はい!」
いけない…マユリさんと電話中だった
『全く生意気な小娘だネ。あの調査書類が送られてきてないヨ?今日までと言ったはずだヨ?一体今まで何をしていたんだい?』
「す、すみません!すぐに送ります」
『しっかりし給えヨ!』
語尾も言いきらないうちに一方的に切られた電話
こないだ喜助さんに、代わりに書類をやってもらっていたお礼と、これからは大丈夫と言った
初っぱなからこれだ…
しっかりしなきゃ…
紫苑は違う番号に電話をかけた
『紫苑か。どうした』
「阿近…あの、ごめんね。マユリさんから電話きちゃった」
阿近は何度か私に連絡をくれていた
それを裏切るようなことをしてしまった
『別にいーって』
「マユリさん、怒ってるよね…」
『隊長はいつもだから、気にすんな』
「…うん」
『でも、お前が期日に遅れるなんて珍しいな。無理してねーか?』
阿近と話していると、いつも緊張がほぐされていく
「うん、大丈夫」
『そっか。なんかあったら言えよ。浦原さん居るか?』
「ありがと。もうすぐ帰ってくると思う。お疲れ様」
『あぁ、お疲れ』
紫苑は通話を終えた画面を数秒見つめ、放置していた書類に目を向けた
「はぁ…」
一度目を伏せて、紫苑は書類に向かい始めた