第1章 温みの灯った日
地獄の底から這い上がるような声、と形容したくなるような低く抑揚のない声にびくりと体をふるわせた兎原さんはう、裏道さん…と震えた声でいいながらその人の方を見る。
私も釣られてそちらを見ると、顔立ちは整っているのに目が死んで、冷たくこちらを見下ろす顔がそこにあった。
「裏道さん」
少し驚いたように熊谷くんが声をあげるとようやく熊谷くんと私の存在に気付いたのかああ、邪魔してすみません、と会釈した。思わず会釈を返す。
「あ、皆さんお知り合いなら良かったらこの席どうぞ」
「えっいいんですか?!ありがとうございまーす!」
グイグイと熊谷くんの隣に座り込んだ兎原くんは助け舟を得たと言わんばかりに気が抜けたように笑う。それに溜息をついたのは熊谷くんだったか、未だ困ったように立ち尽くした裏道さんだったかは分からない。私はよいしょ、と奥に詰めてどうぞ、と隣を指し示した。
人を恐れる野良猫のようにゆっくりとした、それでいてしなやかな動きで少し間を開けて座ったその人の距離感がなんだか面白くて思わず笑う。
「……熊谷と兎原と同室の表田裏道です」
「はじめまして、熊谷くんの友達の遅実早苗です」
ぎこちなく微笑む顔が不器用で妙に可愛らしくて。
「俺は陸上やってるんですけど、裏道さんは体操で超有名な人で〜!元々住んでた寮改装工事するってんで、同室のやつ寮でてったタイミングだったんでうちの部屋に来てるんですよ!学年違って俺らの3つ上なんですけどね!」
焦ったように大声で紹介してくれる兎原くんに、そうなんだ、と相槌を打ちながら改めて表田くんに向き合う。怯えではない。関心でもない。でも無関心ではない。曖昧な表情でこちらを見た相手に手を差し出す。
「私と同い年なんだね」
よろしくね、と言った私の手を戸惑うように恐る恐る握りしめたその手が硬くかさついて、それでも温かくて。
朝、飲んだ紅茶のことを思い出す。胸にぽっと灯りがついたような心地がした。