第1章 この身朽ちても【クルーガー】
「そろそろ行く。世話になったな」
「こちらこそ、今までありがとう」
ハンガーから外したロングコートを、イレーネから受け取る。
長年身に着けてきたこのマーレの軍服は、俺の心を戒める武装でもあった。
帽子を被り、再びイレーネを見下ろす。
「ねえ、これでお別れだから、ひとつお願い聞いてくれる?」
「無茶なこと言うなよ?」
「たぶん、無茶じゃない」
「何だ?」
「……抱きしめて欲しい。ほんの一瞬でいいから」
割と無茶な願いだ。
触れてしまったら、離れがたくなる。
そう思いつつも、そんな想いに反し彼女の温もりを覚えていたいと願う自分がいる。
小さな体に腕を回し、そっと胸元に引き寄せた。
俺の背に添えられた、イレーネの両手。
擦り寄る体が温かくて、愛らしく…
とても、いとおしい。
「イレーネ、お返しに俺の願いも聞いてもらおうか」
「うん?」
「別れの言葉は言わないで欲しい」
「…うん」
「それから、一度でいい。名前を呼んでくれ」
見上げる目は丸くなり、頬が赤く染まった。
恥ずかしそうに俺の胸元に顔を埋める。
しばらく様子を窺っていると、ようやくか細い声が届く。
「……エレン」
「声が小さい。やり直し」
「や、意地悪…!」
「生憎、いい性格はしていない」
「じゃあ、私も意地悪するから」
「…何?」
膨れっ面をしたイレーネに怪訝な顔を返せば、背伸びをして首にしがみついてくる。
「エレン。ずっと、好きだった」
そう囁いたイレーネの唇が、俺のものと重なった。
ほんの僅かな時間―――まだ青い少年と少女が交わすみたいな小さな口づけ。
ゆっくりと離れていく瞳には、また涙が増してゆく。
大丈夫だ。
そんな想いは、煙草の煙のようにすぐに消え失せる。
時が経てば。
別の誰かを愛する時が来たら。
―――そう言えたらいいのに。
俺にもまだ、人のような感情は残っていたらしい。
心の奥深いところで、まだ俺を見ていて欲しいと願ってしまう。