第35章 届かぬ掌 ※
同じように噛まされていたはずの猿轡はどうやったのか外れていて、エルヴィンは口を動かすことができるようになっていた。
「見張りの憲兵がいなくなった。今なら話せる。」
その言葉にハッとして通路を見ると確かに誰もいない。
どういう訳かは分からないが、エマの心に少しだけ希望の灯火が点った瞬間だった。
エマは突然思い立ったように床にしゃがみ、ベッドの角へ頬を擦り始めた。
皮膚が痛くなるまで何度も擦って、頭の後ろで結ばれていた布が僅かに緩んだのを感じると、もう一度強く擦り付ける。するとついに布が口から外れた。
鎖が許すギリギリまで前に出て、エルヴィンを見る。
二つの鉄格子を隔てた先にいる彼がいつもより小さく見えるのは、距離のせいだけではないと思った。心身を削られ、疲弊してるのはエルヴィンも同じなのだ。
「エルヴィン…団長…」
久しぶりに出した声は、酷く掠れていた。
「エマ…すまない」
謝罪するエルヴィンに、エマは思い切り首を振る。
「違う……違うんです!私がっ、」
“ヘマをしたせいで、ごめんなさい”
後半の言葉は涙声に埋もれて全然上手く言えなかった。
拷問中もその後もずっと出なかった涙が、何故か今になって堰を切ったように溢れ出す。
数歩前へ進めば届く距離にいるのに、近づくことも、会話さえ許されなかった。
そのエルヴィンと漸く言葉を交わせたことに、エマは心の底から安堵したのだ。それと同時にずっと一人で我慢していた不安や恐怖も一度に溢れてしまった。
「エマのことは少しも責めていない。だから…お願いだから自分を責めないでくれ。」
「そ…っな、わけ……ごめ、なっ」
「何もしてやれなくてすまなかった…君に深く傷を負わせてしまった。」
嗚咽混じりで尚も首を振り続けるエマに、低く芯のある声が届く。聞き慣れた声がエマを孤独から解放し、また涙が出た。
「エマ……辛くてたまらない状況だが、今から話すことをよく聞いてくれ。」
エルヴィンはエマを見据える。
それは普段より何倍も強い瞳で、エマは涙を零しながらも目を逸らさず懸命に前を見た。
「今がチャンスだ。二人で…この危機を脱するぞ。」