第16章 旅立ちの日
狭い路地の角を曲がった先に見えたもの…
それは以前と変わらぬ姿で佇む、あの古井戸だった。
賑やかな表通りとは違って相変わらずここは人気がなく、静まり返った中で朱色に染まる古井戸は少し不気味にも見える。
ここへ来てもう二ヶ月が過ぎた。
元の世界はどうなっているのだろうか?
私が居なくなった後どうなった?
もしかしたら行方不明として捜索願が出されているかもしれない。
愛娘が突然居なくなってしまって、両親の心に深い傷を追わせてしまっているかもしれない。
澪や学校の皆もそうだ。
元の世界で関りがあった人達は、私が突然居なくなった日常をどう過ごしているのか……
そんなことを考えると、なんだか急に怖くなった。
……元の世界にも自分が大切にしたい人、そして自分を大切にしてくれる人がいるのだ。
やはりその人たちにこれ以上の心配をかけてはならない。
そう考えたことはこれまでも何度もあったが、エマはこの井戸を前にして改めて故郷の大切な人達のことを想った。
そんな思いを胸に抱きながら、視線の先にある古井戸をじっと見つめたまま一歩一歩近づいた。
「……………」
靴底が小さな砂利を踏む音がやけに目立って聞こえる。
古井戸の前に立った。
ここが恐らく元の世界と繋がっている場所。
この中に飛び込めば、もうここには一生戻ってこられないだろう…
周囲の音が次第に遠ざかり、代わりにドクンドクンと大きく脈打つ心臓の音だけが、煩く耳に鳴り響くようになる。
ゴクリと生唾を飲み込んだ時、ふとまた別の思いが脳内を横切った。
今頃、皆無事に壁外調査から帰還できただろうか?
「リヴァイ…さん………」
エマはその名前をぽつりと零した。
井戸の縁にかけられていた手が知らず知らずのうちに震え出す。
瞳の奥がじんとして、急激なスピードで奥から水分が湧き上がってくる。
自分で決めたことなのに、もう覚悟も決めたはずなのに、身体が言うことを聞いてくれない。
愛しい人の名前を声に出せば、心底に押し込めたはずの感情が勝手に溢れ始めた。