第16章 旅立ちの日
「着いた……」
太陽が西へ傾きはじめてからしばらくたった頃、エマは目的の場所で馬車を降りた。
秘書として働き出してから与えられていた賃金で、ギリギリ片道分は支払うことができた。
石造りの建物は朱色に染まり、街を通り抜ける風は夜の寒々しさを少しずつまとい始める。
道を行き交う人々は家路を急ぐのか皆早足で、街全体が慌ただしく動いている。
ここは約一か月前に来た、憲兵団の本部。
その正門前で馬車を降りたエマは、一か月前の記憶を辿りながらゆっくりと歩き出した。
確か前に兵長と二人でここを歩いた時も、夕暮れ時だったっけ。
少しの散策だったけど、あの時は妙に心が浮ついちゃって、楽しかったな。
その時の記憶はエマの中に鮮明に残っており、自分の横を歩くリヴァイの横顔を思い出せば胸がキュンとした。
「あ……」
ここは、兵長と入った雑貨屋さんだ…
店のドアには休業を知らせる看板がかかっている。
今日は休みなのか。
エマは店の窓ガラスに映った自分の姿を見つめる。そして髪をひとつに束ねている髪結紐を撫でた。
自然と頬が緩んでしまいそうになる。
…なんだろう。
ここへ来て楽しいことも辛いこともあったけど、自然と思い出すのは楽しかった記憶ばかりだ。
ハンジさんと夜遅くまで巨人の話や自分の世界の話を語り合ったこと。
エルヴィン団長が連れて行ってくれた大きな大きな菜の花畑。
リヴァイ兵長の元でペンを握った毎日、そして中庭で過ごした穏やかな時間。
出会った人の顔が次々と頭に浮かぶ。
迷い込んだ世界は自分の生きてきた世界より何倍も厳しい世界だった。
でも出会った人達はそんな世界に勇敢に立ち向かい、それぞれに夢や信念を持って強く前を向いて生きていた。
その姿は、これまで何となく流れに身を任せて生きてきた自分がちっぽけに思えてしまうほど熱量と生気に満ち溢れ、とても強くて逞しくてかっこいい生き方だった。
過ぎてみればあっという間の二ヶ月だったが、エマにとってはこの地で経験したことは他の何にも代えがたい大切なものとなったのだ。
そんなことを考えているうちに、気が付くと見覚えのある景色が目の前に現れた。