第8章 現世編(前編)
とっぷり日も暮れた真夜中、空は星が瞬き近辺の家からも既に灯りは消えていた。当然浦原商店も静まり返っている中、ゆうりは部屋の布団の中で頭まで毛布を被り視線を逡巡させる。頭の中では昼に浦原と交わした会話が反芻され、静寂が包む部屋の中で時計の針が進む音と己の心音だけがやけに速く聞こえた。
何故浦原があんな事を言ってきたのか…からかいがてら頬に口付けた事で彼の中の何かを刺激してしまったのだろうか。いや、そもそも温泉旅行に出掛けた時本来行為に及んでいてもおかしくなかった。…が、流れでもつれ込んでしまうより、いざ今夜行くと明確に宣言される方が余程緊張してしまう。
色々な事が頭の中を巡っていると、部屋の扉がキィ…と音を立てて開いた。ドキリと大きく心臓が鳴り両目をキュッと閉じる。本当に来た…!
「…ゆうり、起きてるでしょう?」
「……え、っと…い……いらっしゃい。」
ぱらりと毛布を捲られゆっくり目蓋を持ち上げるとそこには寝巻きでは無く私服を着た浦原がしゃがみ込んで居た。予想外の格好にゆうりは大きな瞳をぱちくりとさせ上半身を起こす。
「…あれ、私服?」
「まさか此処ですると思ってたんスか?他の人達起きちゃったら家族会議もんですよぉ。…あ、もしかしてそっちの方が興奮するとか?」
「しないよ…!!」
「しーっ。」
思わず声が大きくてなりそうになると彼の人差し指がそっと唇に添えられた。大人しく気を鎮めて肩を降ろすと彼はにっこりと笑う。
「ボクがあげた羽織あるでしょう?外はまだちょっと寒いんで、着て下さい。」
「…分かった。」
ゆうりは立ち上がりハンガーに掛けてある羽織を手に取り着込んだ。その間に浦原は2階の窓枠に何時も使っている下駄を置き履く。1階の屋根上へ足を下ろし外に出ると、彼女に向けて手を伸ばした。
「ほら、行きましょう。」
「なんか、これから駆け落ちでもするみたいね。」
「それでもボクは良い…なーんて言いたい所ですけど、此処には大切な人が沢山居るんでそれは出来ませんねぇ。」
「そうね…じゃあ、一夜限りの逢い引きかな?」
伸ばされた手に手を重ね、窓枠に足を掛けて外に出れば浦原は躊躇いなく彼女の体躯を横抱きにした。ゆうりは彼の首に腕を回す。