第8章 現世編(前編)
「え?でも私、鍛錬したいですし…。」
「たまには息抜きも必要じゃ。」
「う…。」
確かに、以前無理をして結局風邪を引いてしまったことを思い出し言葉を詰めた。ゆうりは暫し間を置いた後息を着きチラリと浦原へ視線を向ける。
「…喜助、一緒に行かない?」
「ボクとでいいんスか?夜一サンと行って来ても…いだぁ!!」
言葉を遮るように四楓院の鋭い爪が彼の顔をシャッと引っ掻いた。綺麗に付いた三本の線からたらりと血が滲む。浦原は直ぐに頬を抑え眉を下げて黒猫を見やった。
「何するんスか夜一サン!」
「阿呆か、女が恥を忍んで誘っているというのに、他のやつと行けと言う男が何処に居る!」
四楓院から視線を逸らし、ゆうりを見ると確かに頬が赤く染っているように見えた。
まさか本当にボクを誘うのに照れ臭さを抱いていたのだろうか。それは一体何故?…男として意識をしたから、か?
気付いた途端ドクリと心臓が高鳴った。二人きりの旅行に誘われるのも、親としてでは無く異性として意識される事も嬉しい。嬉しい、が…そんな顔をされて手を出さないと約束出来るかと聞かれれば答えは否である。未だに返答あぐねる彼に、ゆうりは小さく肩を落とし携帯を取り出した。
「…喜助が来てくれないなら、真子に連絡してみるね。」
「え、ちょ……夜一サンなら分かりますけど、それはナシですって!平子サンと行く位ならボクが行きます!」
慌てて番号を打つ彼女の手首を捉えると、ゆうりはにっこりと笑って折りたたみ式の携帯をパタンと閉じた。まるでこの反応自体、計算の内かの様な素振りに浦原は呆気に取られる。
「ふふ、決まりだね。楽しみにしてるわ。」
「…アナタって人は…。」
彼は吐息を零しながら後頭部を搔いた。そして手首を掴んだままの手で、彼女の体躯を引き寄せ耳元へ唇を添えると静かに囁く。
「…誘ったからには、それなりに覚悟して下さいよ。」
普段何処か緩い様子の彼の低い声と刹那的に向けられる熱を帯びた視線に今度はゆうりが呆気に取られた。そのまま浦原と四楓院が台所から立ち去っていくと、1人残されたゆうりはドキドキと煩い位に鼓動を刻む心臓を右手で抑える。
「…喜助のあんな声、初めて聞いた。」